【礼拝メッセージ 】                                                      2015年09月27日 

 信仰を拠り所として
     

ユダの手紙1章17−25節

山岸 明牧師


 当時、キリストの救いを否定する者たちが教会に侵入し、内側から不安と混乱を引き起こしていました。動揺する教会の兄弟姉妹にユダは手紙を書き 送り、信仰のために戦う事を勧め、そして、もう一度自分たちの救いがどこから来たものであるかを明確にし、聖なる信仰をよりどころとして生活するように勧 告したのです。
 さて、信仰をよりどころとするとはどういうことなのでしょうか。ここに一つの比喩があります。海の上に2隻の船が停泊していました。1隻はイカリを海底 まで下ろして停泊しています。もう1隻はイカリを上げたままで停泊しています。おだやかな天候の日には2隻とも、ゆらゆらと波に揺られてとても快適です。
 しかし、波風が強くなってくると、イカリが下ろされていようが上げていようが2隻の船は大きく揺れます。そこへ嵐がやってくると、2隻の船はますます激 しく波にもまれてしまいました。しかし、嵐が去ったあと、イカリを下ろしていた船は同じ場所にとどまることが出来ましたが、イカリを上げていた船はどこか に流されてしまいました。
 この比喩は、イカリを信仰にたとえ、波を人生の荒波にたとえています。信仰をもっていようがいまいが、人生の荒波から逃れることはできません。イカリが 下りていても、嵐のときには船を沈没させないよう、一生懸命に操作するのです。つまり、信仰があってもこの世の荒波と戦いながら生きなければならないこと があるのです。しかし、信仰のよりどころがあれば、どんな嵐にあっても、流されることはありません。
 今日、神が聖書を通し私に仰せられているのは、あなたの本当のよりどころはどこか。よりどころをどこに置くべきなのか?私の救いのために十字架について くださった主イエスをよりどころとして人生を生きるのか、それとも、主イエス以外によりどころを置いて人生を生きるのか。私たちは心をはっきりと定めなけ ればならないのです。