【礼拝メッセージ 】                                                      2015年11月1日 

 『信じる世界
     

マルコによる福音書9章21-27節

山岸 明牧師

 最近、パソコンを 立ち上げると最初にウインドーズ10に「アップデート」しましょう、というコメントが出てきます。つまり新しい状態に更新しましょう、と言う意味です。こ れが毎回、毎回出て来るのです。そんなときにふと思ったのは、私たちの信仰も「アップデート」が必要だということです。それは『今が駄目だから』とか『こ うならなければ駄目だ』ではなく、今以上に成長していきたいと言うことです。

 私たちの信仰も最初は御利益だけを求める信仰でした。そこにはいつも「私」が中心にいる信仰でした。しかし、私が中心にいる信仰はいつか限界が訪れ、不 平不満だらけの信仰生活になってしまいます。そこで「私」中心の信仰から「神様」信仰へと突き抜けていきたいのです。つまり「私は」の信仰に立って行く か、「神は」の信仰に立って行くかです。ここでしっかりと「神は」の信仰に立って行くとき、そこに神の御業を見るのです。

 子供の病の癒しを求めて来た父親に主イエスは「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を 殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」(22)と言った。「イエスは言わ れた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(23)。その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 父親は「できるか、できないか」を問題にしたが、主イエスは「信ずるか、信じないか」を問題にしたのです。この世は常に「できるか、できないか」、「分 るか、分らないか」の問いであり、自分の理解の中での納得を求めているのです。この自分の納得こそ「私」が中心にいるのです。主イエスが私たちに求めてお られるのは、自分中心の現実の世界から、それを突き破り、霊の命の世界へ導こうとするものなのです。父親の「信じます。不信仰なわたしを、お助けくださ い。」の叫びこそ、私の信仰から神様への信仰への入口なのです。