【主日礼拝メッセージ 】                                                             2016年1月10日 

 仕える生き方
     

ペトロの手紙(一)4章7−11節

山岸 明牧師

 主イエスは「わた しは仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)と仰せられました。『仕えられるより仕える』。これが神の国の価値観です。この世は 正反対で仕えるより仕えられるという価値観の中にあります。この世の成功者や偉い人と言われるのは、多くの人を自分に仕えさせた人です。しかし、主イエス は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43-44)と仰せ られた。

 そこで、仕えるには僕の心を持たなくてはなりません。僕の心とはどういうものでしょうか「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに 固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字 架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6−8)とあります。

 同じフィリピ2:5文語訳では「汝ら、キリストの心を心とせよ」となっています。主イエスの心を自分の心とせよ、主イエスの心とは「仕える」心です。生 き方そのものです。「仕える」というテクニックを身につけることではありません。そのためには何よりも神に従順でなければなりません。

 また、お金を頂こうが、ボランティアであろうが関係ありません。生き方そのものですから、何をするにしても心からそれを行うのが僕です。立派になりすぎ て、小さな仕事に関わる必要がなくなる事など決してありません。マザーテレサが「わたしは小さなことに大きな愛を持って行う」と言いました。もし、愛の心 を持って打ち込むならば、どんなにつまらない事でも価値ある働きとなるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23: 11−12)。喜んで僕になろうという人のための道は大きく開かれているのです