【主日礼拝メッセージ 】                                                             2016年1月24日 

 朝の来ない夜はない
     

コリントの信徒への手紙(一)10章13節

山岸 明牧師

  神が 私たちを試練(苦しみ・悲しみ)に遭わせるというのです。社会の中で傷つき、辛い思いをして、負いきれない重荷を持って教会に来たのに、なぜ、試練を与え るのか。納得できないと言いたい。しかし、私たちが納得できようが、出来まいが、私たちの人生には試練が現実として襲って来ます。ここで考えたいのは、神 様が与えられた試練であれば、そこにはきっと何か目的があるはずです。その苦しみ、痛み、悲しみにはきっと意味があるはずです。

 試練の意味について、ペテロは言います。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって 本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉とをもたらすのです。」 (ペトロ(一)1:7)。

 これは、私たちに起こる試練には必ず目的があると言うことです。それは、火を通して金を精錬すると、不純物が取り除かれ、純金ができるように、私たちの信仰も艱難、苦難を通して精錬されていく中で人間としても、また与えられた信仰もともに成長していくのです。

 また、人生において試練は神様を通して来ると言う事が理解できると、人生において無意味なことなど何一つ無いという事が分ってきます。たとえ小さな試練 でも私たちの成長の機会となることを知り、更に問題と思う一つ一つに意味や価値が宝物のように隠されている事を知っていくのです。

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)。今はおぼろげで、何故、ど うして、私だけが・・・そんな苦しみや、痛みや、悲しみが。やがて「価値」あるものになる。そのときが必ず来るのです。「夕べがあり、朝があった。」(創 世記1:5)。と聖書の最初にあるように、朝の来ない夜はないのです。