2000年1月2日

主日礼拝メッセージ

世の光キリスト 

聖書: ヨハネ福音書8章12節

 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)

【要 旨】

 仏教の世界では、夏の盆から半年ぶりに先祖の霊が懐かしの我が家に帰って来るというので、家の中を掃き清めて正月を迎えます。そして過ぎた年の報告と感謝、新たな年への決意を述べて、導きと守りを願うそうです。聖書の民ユダヤ人も先祖を敬うことでは引けを取りません。それも2代や3代どころか、10代以上もの記録をきちんとしています。しかし彼らが導きを求めるのは先祖の霊に対してではありません。先祖の神を我が神として、この神の御言葉に聴き、祈るのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)とある通りです。

 キリスト教会もまた先祖を敬い、聖書こそ信仰と生活の唯一の規範と信じていますが、道の光、歩みを照らす灯を、ユダヤ人が無用の石と拒んだイエス・キリストに見出します。天地創造の神は混沌とした暗闇の深淵から「光あれ!」と叫ばれました。すると光が輝きました。光、それは栄光の主イエス・キリストです(ヨハネ1:9−10,8:12)。

 期待と不安の中で新しい年が明けました。これまでの人間の歴史を振り返るとき、新たな千年紀も混沌として、暗闇が深淵の面をおおっているようです(創世記1:2−3)。成る程大都会は不夜城のように年末から年始にかけて明るいです。しかし、いかに人工的な明かりが街中を照らそうと、罪の闇路をさまよう人の心の中にまでは届きません。このような人間の魂の奥深くに届く声が今も聞こえてきます。「光あれ!」と。栄光の主イエス・キリストこそをが私たちのこれから先行くべき道を示し、立つべき位置を教えて下さるのです。ですから私たちは、新しい年に向かって歩みを進めるにあたって、先ず光の主イエス・キリストの御前に謙り、パンと杯に与ることから始めましょう


【本 文】  主題「世の光キリスト」(新年感謝主日礼拝) 

      ヨハネによる福音書 8章12節(新約 p.181)   

 2000年が明けました。「元日は 今年こそはと言えるただ 一つの日なり」と言う川柳があります。まことに今年こそはと言い交わし、年末には良い年でしたと喜び合う年、明るい年であってほしいものです。ところで仏教の世界では8月の盆から約半年ぶりに先祖の霊が懐かしい我が家に帰って来るというので、家の中を掃き清めて迎えます。これを正月と言います。そして過ぎた年の報告と感謝、新たな年への決意を述べて、導きと守りを願うのです。   

 聖書の民ユダヤ人もまた先祖を尊ぶ民族です。それも2代や3代前だけでなく、10代以上もの先祖の名前をきちんと記録しているのですから驚きです。但し、彼らはその先祖に導きを求めるのではなく、先祖が信じた神と、神の御言葉に自分たちも聞きながら歩み出すのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105 旧約聖書 p.964)とある通りです。             

 キリスト教会はその「光と灯」をユダヤ人が無用の石と拒んだイエス・キリストに見出します。主イエスご自身そのように証されたからです(ヨハネ8:12)。光にも色々あります。人工的な光も多少命を感じます。新潟で聞いた話ですが、1年の半分が雪雲に覆われた日本海沿岸では心を病む人が少なくありません。その治療法の一つとして太陽に近いある種の光を見つめさせることで、可成りの効果を上げていたと言うことです。        

 神が創造された太陽の光は更に命が溢れています。その光と熱をもって生き物を養います。海水を蒸発させて雨や雪にし、地上に降らせて野菜や穀物、また草花や様々な種類の樹木を育ててくれます。真に人間が作った光も、神が造られた太陽の輝きも人間の生活に欠くことの出来ないものです。 しかし私たちはそれらの光の下にあるだけでは、本当の命を持つことは出来ません。主イエス・キリストから発せられる光こそが私たちには最も必要なのです。この光こそ私たちの霊と心とからだを完全に守ってくれるのです。            

 天地創造の主なる神は混沌とした暗闇の深淵から「光あれ」と叫ばれました。すると光が輝きだしました。そしてこの光によって全てのものが造り出されたのです(コロサイ1:15−17,ヨハネ1:9−10)。神が天と地を創造なさる前の世界は混沌としていました。深い闇の淵の中にありました。今日もこの造り主なる神に出会うまで、人は皆混沌としています。暗闇の中にあるのです。このヨハネ8:12の前に一つの物語があります。これは一人の女性の物語です。ユダヤ人にとって正月とも言うべき「仮庵祭」が祝われているその陰で彼女は、してはならない罪を楽しみ、夢中になっていました。しかしそれはついに白日の下に曝されました。ユダヤ教の指導者は極刑をもって罪の精算をさせるべきだと言いましたが、主イエスだけは彼女に悔い改めのチャンスを与えました。彼女は心から悔い改めましたので、救われました。聖書ではその直後に「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と言われたことになっています。ユダヤ暦の正月である仮庵祭の期間エルサレムの街は新宿の街のように、眠りを知らない不夜城です。どこもかしこも明々と灯りがともっています。けれども人工的な明かりがどれほど街に溢れても人の心の中にまで届きません。むしろ人工的な明かりはその反対側に影を作ります。灯りの下で天真爛漫に正月を楽しむ人もいれば、陰に回って罪を楽しむ人もいます。 混沌という文字を辞書で見ますと、天地のまだ分かれないさま。物事の区別が明らかでないさま。と説明されています。新しい年は未知の年です。将来については私たちも未だ混沌としています。何が待ち受けているのやら、何が起こるのやら不安と言えば不安です。成る程大都会は不夜城のように年末から年始にかけて明るいです。いかに人工的な明かりが街中を照らそうと、罪の闇路をさまよう人々の心の中にまでは届きません。しかし人の魂の奥深くに届く声が今聞こえてきます。「光あれ」と。栄光の主イエス・キリストこそが私たちのこれから先行くべき道を照らし、立つべき位置を示して下さるのです。ですから私たちは、新しい年に向かって歩みを進めるに当たって、先ず光の主イエス・キリストの御前に謙って、パンと杯に与ることから始めましょう。

祈りましょう。            

 天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。

 この年も決して楽観を許さない忌まわしいことの起こりそうな不安があります。暗い事件の数々が起こりそうな気配を早くも感じます。だからこそ「わたしは世の光である」と言われた主イエスのみ声に聴くことから始めさせていただき、心から感謝します。どうぞ私たち一人ひとりの生活を主イエスによって整えさせて下さい。この教会に御霊の油を満たして下さい。この一年も、どうぞ世の誘惑に負けることのない従順さと謙り、純真な心と清い信仰であなたに従う群れとして下さい。

 私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。                                                                              


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