2000年2月6日

主日礼拝メッセージ

なぜ怖がるのか  

メッセンジャー:高橋淑郎牧師

聖書: マタイによる福音書8章23-27節(新約 p.14)

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」  そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪なぎになった。                  (マタイ福音書8章26節 )

【要 旨】 

 夕暮れ、主イエスは弟子たちに命じてガリラヤ湖西岸から船出されました。この湖の地形から、夕暮れは船を出すのに最悪の時間です。このことを熟知しているペテロを含め4人の元魚師の弟子たちは、文句も言わずに従いました。「イエスさまが一緒なら怖(こわ)くない」という信仰が彼らを支えていたからでしょう。しかし試練の大きさ、激しさは現実に体験して初めて知るものです。イエスさまが一緒なら怖くないという確信がどの程度のものか、人生に襲い来る嵐は容赦なく試すのです。処が一緒にいるはずのイエスさまは、私たちがこんなに苦しんでいるのに少しも救いの手をさし伸べては下さいません。ふと見ると、主は眠っているではありませんか。あの弟子たち同様、私たちも必死に叫びます(マルコ4:38 では主イエスに対する非難めいた訳文になっています)。「眠っておられるイエスさま」に、私たちの頭の中が「?」マークで一杯になり、心は憤(いきどお)りに支配されそうになります。しかし聖書をよく見ると、主は弟子たちと同じ舟の中で眠っておられます。イエスはどこか安全な場所で居眠りしておられるのではありません。弟子たち(今日試練に苦しむ全ての人)と同じ条件に身を置き、しかも天父に絶対の信頼を置いて眠っておられるのです(詩 4 : 9)。「なぜ怖がるのか」と叱りながらも私たちを救って下さるのです。私たちも叱られながら、主にのみ頼って叫び(祈り)続けましょう。


【本 文】  なぜ怖がるのか 

 

 私たちの青年時代、良く牧師先生から「君たちは死海のような信仰ではなく、ガリラヤ湖のような信仰の人になりなさい」と言われたものです。どう言う意味かと言いますと、「ガリラヤ湖」は色々な川から注ぎ込まれる水を集めて今度はヨルダン川を経て南の死海へと流し出すので、水は清らかですし、沢山の生き物を養うことが出来ます。一方「死海」はあちこちから注ぎ込まれるばかりで、その水はどこにも出て行くことはありません。ではどのように水位が保たれているかと言いますと、その地方は塩分濃度の高い岩地になっていますから、死海に注ぎ込まれた水に塩分が含まれ、どんどん蒸発して行くわけです。ガリラヤ湖型の信仰、それは受けた恵みを他に与えるクリスチャン。一方死海型信仰とは、受けるばかりで与えようとしない自我中心の生活をするクリスチャンのことです。恵みを受けるばかりで与えることをしないクリスチャンであってはならないと言う意味です。

 しかし今日のテキストは「あなたはガリラヤ湖型の信仰か死海型の信仰か」と問うメッセ−ジではありません。むしろ、人に与えることを喜び、主イエス・キリストに従順な人に降りかかる大きな試練をどのように受けとめることが出来るかというメッセ−ジであります。

 夕暮れになって、弟子たちは主イエスに促されてガリラヤ湖に船を浮かべ、向こう岸目指して漕ぎ出しました。私たちはこの記事を読んで弟子というものについて深く学ばされるのです。と言うのは主の弟子の中に、少なくとも4人の漁師がいます。彼らはガリラヤ湖の特徴を知り尽くしていました。時間や天候次第で湖の表情が一変すると言うこと、船を出すに相応しい時間とそうでない時間を知っていました。今、主イエスが船を出せと言われた時間は、彼らの経験から言うと最悪です。しかし、彼らは黙々とそれに従ったのです。イエスさまが一緒なら怖くないと言う信仰が彼らを支えていたからでしょう。しかし試練の大きさとその威力は現実に体験して初めて知るものです。イエスさまが一緒なら怖くない、その確信がどの程度のものか、人生に遅い来る嵐は容赦なく試すのです。私たちはそれでも「イエスさまが一緒だから」と自分に言い聞かせるように、困難に立ち向かおうとしますが、十重二十重と襲い狂う嵐はその確信をあざ笑い、私たちの行く手を遮ります。弟子たちは他の神を呼んだのではありません。眠っているイエスさまに助けを求めたのです。マルコ4:38を見ますと「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言っています。弟子達は眠っておられるイエスさまを見て、今風の言い方を許して頂くなら「切れる」寸前でした。「良くもまあ、この非常時に眠っていられるものだ」と非難の目つきが感じられる言い方です。イエスさまが一緒なのだから、直ぐに助けてくれても良さそうなものなのに、何をしていらっしゃるのだろうか。そんな思いが胸の内に寄せては返すことってないでしょうか。

 今日のテキストは、良い加減な信仰の人ではなく、インマヌエルの信仰に立ち続けたいと願うクリスチャンだからこそ経験する苦しい苦しい試練の物語と言えると思います。イエスさまが一緒なのです。それは露も疑ってはいないのです。なのに向こう岸が見えないのです。それどころかこの信仰の歩みそのものを根底から転覆させるような問題の嵐が容赦なく襲ってくるのです。イエスさまに向かって恨みがましい言葉の一つや二つ、言いたくもなるではありませんか。

 詩編73(p.907を見て下さい。この詩人は冒頭に「神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ 一歩一歩を踏み誤りそうになっていた」(1−2節)と言います。これを今日のキリスト教会とそのメンバーであるクリスチャン個人の言葉に置き換えて読むと、正にぴったり、またしっくりきます。この詩人はこう言いたいのです。神とは誰か、神の会衆(教会)とは何か。清き信仰とはどのような信仰か。またそのような信仰者に対する神の約束は何か、彼には全部分かっているのです。「しかし」と言葉を続けます。ピュアな信仰生活を目指す私に対する神さまのなさりようは余りにひどい。それに比べて、あなたを知らない世間の人々の生活は実に快調です。神さま、一体これは何なのですか。このように詩編の言葉は続きます。結局は主の教会に、礼拝に立ち帰って「神さまから来る試練の意味を深く悟ることが出来るのですが、そこに行き着くまでの苦しい苦しい信仰の闘いの詩編です。眠れるイエスさまを揺り起こす弟子にも似た詩編です。今日(きょう)のテキストと詩編73は同じ人の叫びと言うことが出来ないでしょうか。そして忠実にイエスさまに従おうとする現代の敬虔なクリスチャンの叫びでもあるのです。イエスさまはいないのでしょうか。いいえ、事実いらっしゃるのです。私たちの苦しみを主もまた一緒に経験して下さっているのです。だからこそイエスさまの信仰には到底及びません。詩編4:9(p.837)に「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです」とありますが、これこそ天の御父に委ねきって船の艫(とも)を枕に眠っておられるイエスさまのお言葉ではありませんか。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」とお叱りを受けながら、私たちは叫ぶのです。波も風も支配しておられるイエスさまに叫ぶのです。叱られても叱られても私たちは叫ばなければなりません。繰り返し遅い来る嵐に見舞われる信仰生活の中で、この訓練を繰り返し受けなければ私たちはイエスさまのような、詩編4:9のような平安を勝ち取れないのかも知れません。「なぜ怖がるのか」と私たちを叱りながらも、私たちを救い、且つ持ち運んで下さる主イエス・キリストの父なる神さまに圧倒させられ、主の御業に驚きの言葉を発するのです。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と。 

 祈りましょう。

 天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。私はこの教会の招聘を受け、牧師としてその務めに就かせて頂いて早3年目です。これまで幾つかの教会で、兄弟姉妹達と信仰の交わりをしてきましたが、この仙川キリスト教会のメンバーほどその内容においても、また量と質の重さにおいても信仰の土台を揺すぶられるような試練の中に置かれている多くの人を見たことがありません。この方々にどのような言葉をかけることが出来るかと、胸の締め付けられる毎日でした。そのような時、あなたは今朝、実に適切な御言葉を与えて下さいました。これは試練の直中に置かれている人だけでなく、その方がたのそばで言葉もなく座しているしかできなかった私たちのためにも与えられた、実に適切な恵みのお言葉です。私たちは試練の中にある人も、そばで佇(たたず)む者も、「お前達の信仰はどこにあるのか」とお叱りを受けながら、あなたに叫び続けます。「お救い下さい」と祈り続けます。そしてそこからこの仙川キリスト教会のメンバー一人ひとりに詩編4:9の感謝と讃美の祈りの言葉をお与え下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によって感謝をもってこの祈りをお捧げします。 アーメン。                                                                                  


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