2000年2月13日

主日礼拝メッセージ

平和が支配する国  

メッセンジャー:高橋淑郎牧師

聖書: コロサイの信徒への手紙 3章12-17 節(新約 p.)

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 (コロサイ3 : 15 )

【要 旨】 

 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と聖書は語ります。あなたの心は平和でしょうか。客観的にはそうかも知れません。しかし心の中は色々な問題で揺れに揺れている人も少なくないと思います。この国は99%、もしかしたらそれ以上に非キリスト、反キリストの国なのです。自由と平和が根づいている国とは思えません。一昨日は「建国記念の日」として、あらゆる所で「日本讃美」の大合唱が上がりました。日の丸の旗が翻り、君が代が高らかに歌われました。そしてこの機に乗じて、憲法改正が叫ばれました。大和民族的平和論が各地で熱っぽく語られました。しかしこのような流れがもたらすものは60年前の日本への逆行です。年老いた者、或いは弱い者が置いてきぼりにされ、貧しい者が奴隷のような生活を強いられ、差別と貧困が支配することでしょう。外国人排斥が一層進む恐れがあります。

 では、どうすればこの国は「キリストの平和が支配する国」になるのでしょうか。それが可能とされるのは教会を通してであります。この国の人々が真に平和を享受できる道は、教会を通して、人々の心に「キリストの言葉を豊かに宿らせる」ことによって開拓されていくのです。教会から平和の福音が伝えられ、広められなければなりません。クリスチャンは個人的な幸福を追求することで自己満足を得る為にのみ召されているのではありません。


【本 文】  平和が支配する国  

 

 「キリストの平和があなたがの心を支配するようにしなさい」と聖書は言います。実際あなたの心はキリストにある平和で満たされていますか。もしかして、それとは反対にあなたは肉体的には病と闘う日々、精神的には家庭の中に、或いは世の中のしがらみの中に様々なストレスを抱えて苦しい戦いの日々かも知れませんね。それに加えて、最近オーストリアに極右政党との連合政権が誕生して、欧米では上を下への大騒ぎです。この日本でも少しづつ憲法が言う基本的人権が軽んぜられ、公権力が国民の生活に土足で入り込んでくる気配を感じます。先週の金曜日、所要で迎えに来てくれた車で中野区まで行きました。その日は2月の11日、世間では「建国記念の日」と呼び、官公庁の庁舎には日の丸がはためいていました。後ろから街宣車が2台近づき、軍艦マーチなど数曲の軍歌の合間に君が代を流しながら追い越して行きました。街宣車の横にも窓にも天皇賛美の言葉、北方領土返還を求める言葉、民族主義を煽(あお)る言葉、自主憲法制定を主張する言葉等、例によっていくつかの戦闘的なスローガンが色鮮やかに書かれていました。その中にもう一つ「日本の強者たち団結せよ」という一行を見つけて、思わずエッと声が出かかりました。この運動をしている人たちの目には日本人しか見えていないようです。それも強い人達でないと日本人として認めないのでしょうか。地球総人口の約2.5%に満たない日本人しか見えていないとしたら、余りにも寂しいです。「日本の強者たち団結せよ」と訴える人々の目には、日本経済の底上げをして支えてくれている外国人が、反社会的な一部の人々と同じに見えるのでしょうか。体や心に障害を負いつつ、それを克服しようと一生懸命に生きている人や、体の弱っている高齢の方々は日本人ではないのでしょうか。彼らの大和民族的平和論は、60年前の日本へと逆戻りするのです。弱者を非国民と呼び、日本人以外の外国人は戦うべき敵か、若しくは奴隷のようにみなすかという発想です。貧困と差別が国中を覆う状況を平和な国とは誰も呼ぶことが出来ません。どうすれば真の自由と平和をこの国にもたらすことが出来るのでしょうか。この国は99%以上の人々が非キリスト、または反キリストです。聖書の言う自由と平和を受け入れにくい国民なのかも知れません。だから不可能なのでしょうか。私は信じます。神に不可能はないと言うことを。神はこの国にもキリストの教会を創造して下さいました。神はこの国に平和憲法を与えて下さいました。神はこの国のキリスト教会に2月11日を「信教の自由を守る日」と言う告白の場を与えて下さいました。この国もキリストの平和が支配する可能性を与えて下さっていると信じることが出来ます。

 使徒パウロはコロサイ教会を通して私たちにこう言っています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」と。「選ばれる、聖なる者とされる、愛される」とは、神が私たちを特別の者と見なしておられると言う意味です。キリストの教会とはどのような群れか、と問われたら、「神の者とされ、主イエス・キリストの模範に倣って憐れみと寛容、謙遜と赦しを持ち合わせながら、愛という帯で結び合わされた共同体だ」と答えることが出来ます。だから教会は常にキリストの平和に支配されているのです。              

 キリストの平和を乱す最大の敵は神ならぬものを神とする心です。先ずは教会の中からこのような不信の心、反神の罪を一掃しなければなりません。しかしだからと言って教会は人の罪を裁き合うところではありません。まず私たちが心をキリストの平和で支配していただくことこそ最も重要なことなのです。その為には愛の帯で堅く結び合わされた共同体として成長することです。キリストの言葉を心に宿し、学び、詩と讃美と霊の歌をもって神をほめたたえることです。絶えずイエス・キリストの名によって父なる神に感謝の祈りを忘れないことです。即ちクリスチャン生活は礼拝と祈祷会によって整えられなければならないと言うことです。クリスチャンはただ個人的な幸福追求で満足していてはなりません。キリストの平和がクリスチャン一人ひとりの心に支配することから始まり、教会の中から自然と平和の福音が地域社会に広められて行くのです。その時こそこの国はキリストにある自由と平和を実現することが出来るのです。教会の使命は一にも二にも福音宣教を置いて外にありません。使徒パウロがローマとエペソの教会に宛てた手紙の中からもこのことを深く悟ることが出来ます。口語訳でご紹介したいと思います。「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、呪ってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思い上がってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(ローマ12:11−18)「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである」(エペソ2:14−17)

祈りましょう。

 天の父なる神さま、あなたの御名を讃美します。2月11日は私たちキリストの教会にとって、重荷ではありますが、しかしまたこの国を愛する者として、神ならぬ者に手を合わせることの罪であることを知らしめる機会として与えられたあなたからの恵みの日でもあると信じてみ名を崇めます。私たちは天皇の紀元としての平成12年に生きているのではなく、真の主であるキリストの紀元としての 2000年に生かされている者であることを告白致します。信仰の自由を妨げる圧倒的な力の前で、あのマルティン・ルーテルが「暗きの力のよし防ぐとも、主のみ言葉こそ進みにすすめ。我が命も我が妻子も取らばとりね、神の国はなお我にあり」(讃美歌267番)と、大胆に信仰を言い表す讃美歌を作ったように、私たちの心も常にあなたの十字架の下で平和であることが出来ますように。いつも先ず私たちの置かれているこの仙川キリスト教会の平和を祈る者、この平和を世に証する者とならせて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。 アーメン。


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