2000年3月12日

主日礼拝メッセージ

過去にとらわれず 

聖書: マタイ9 : 9〜13 (新約 p.15) 

 
                   メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 人には生かすべき過去と葬るべき過去があります。ここに元「徴税人」のマタイという人がいます。この福音書の著者です。この個所で彼は自分の身に起こった救いの出来事を証したかったのです。徴税人は当時ユダヤ人の同胞から、社会的にも宗教的にもさげすまれていました。彼がその一人かどうかは別として、徴税人は必要以上に名目を付けて税金だと取り立てては私腹を肥やしていました。マタイはとても孤独でした。そこへ主イエスが入ってきて、「わたしに従いなさい」と招いて下さいました。罪の赦しを与えるばかりか、自分のような者を神の国を広める大切なご用のために用いると言って下さったのですから、彼の喜びはどんなに大きかったことでしょう。マタイは古い罪の自分に死んで、新しいキリストにある永遠の命に生れ(甦えっ)たのです。

 マタイはこのように過去を葬って、新しい一歩を踏む出しました。彼が神の国を広める為にした最初の仕事は同業者や世間から「落ちこぼれ」とみなされている人を主の下に呼んで伝道集会を開くことでした。主も喜んでこの仕事を成し遂げて下さいました。

 マタイはまた過去を生かすことも忘れません。かつて彼は紙とペンを持って同胞を苦しめ、怒りを買い、罪に罪を重ねていたかも知れませんが、今はその紙とペンを持って、もっと多くの人に主の恵みと救いが及ぶようにと、自分の証しを含めた主イエスキリストの物語(福音書)を書き残してくれました。これによって私たちはイエス様に出会えたのです。主を讃美しましょう。


【本 文】  過去にとらわれず 

               

 人には生かすべき過去と葬るべき過去があります。過去を将来への教訓として生かそうとすることは尊いことです。しかし過ぎ去ったあのこと、このことをいつまでも引きずって思い煩ったり、反対に勲章のように思い上がることは愚かなことと言えます。ここに元「徴税人」という公務員上がりのマタイという人がいます。この福音書の著者です。マルコもルカもこの徴税人をはっきり「マタイ」と呼ばず、婉曲(えんきょく;遠回し)に「レビ」と呼んでいます。しかしマタイは「これは私のことである」と明言します。この箇所は彼の筆による彼自身の救いの証なのです。この時代「徴税人」は決められた以上の税を様々な名目を付けては取り立てては私腹を肥やしていました。マタイもその一人であったかどうか分かりません。しかし世間というものは、兎角(とかく)十把一絡げ(じっぱひとからげ)に思い込むものです。ファリサイ派のような宗教家に至っては「異邦人」と「罪人」と「徴税人」の死後を「間違いなく地獄行き」と決めつけていました。宗教家がそう言うのですから、世間の見方も当然右へ倣えとなるわけです。昔の日本人はこのような人を『やくざ』と言いました。新潟の教会にいた頃、郊外の宿舎で一泊の修養会を開きました。教会のビジョンについて熱心に祈ったり、語り合ったりしていました。隣の部屋では子ども達も将来どんな教会堂がほしいか語り合っているはずでした。所が聞こえてくるのはどうもそうではありません。時々「丁か、半か」というかけ声が聞こえてくるのです。一人のお母さんが何をしているのかと様子を見に行って分かりました。彼らはポケットに忍ばせてきたサイコロと、お昼に飲んだジュースのコップで賭け事をしていたのです。こちらの部屋では将来の教会像を語っているのに、その将来の教会を背負ってくれるはずの子ども達の方が、一歩も二歩も先を行く現実的な会合を持っていました。昨年の秋約10年ぶりに新潟栄光教会を訪ねましたら、あの子ども達が相変わらず牧師夫人に叱られながらではありましたが、教会音楽の一端を担ったり、礼拝の奉仕、午後のピクニックのお手伝い等、教会を支えるメンバーとして成長してくれていました。サイコロとコップの話と言えば、「ヤクザ」というのは賭け事の数字に由来していて、8と9と3を語呂合わせ的にヤクザと言うそうです。8と9と3を合計すると、ちょうど20になります。0がつく数字は賭け事の世界では何の役にも立たないそうで、そこからこの世界の人々が自分を卑下してそう呼んでいると聞きました。そして世間もこのような人々に積極的に近寄りません。聖書の時代の「徴税人、罪人(アウトローな生き方をする人々)」は異邦人(聖書の神を認めない外国人)同様に世間から煙たがられ、いわばヤクザとして白い目で見られ、近寄る人はありませんでした。

 それですからマタイはとても孤独でした。そこへ主イエスがわざわざ彼の収税事務所に入って行かれました。人々は最初確定申告か納税の相談にでも行ったと思ったかも知れませんが、そうではありません。主は単刀直入にマタイに言われます。「わたしに従いなさい」。すると彼は立ち上がって従ったのです。これにはペテロや他の弟子達も、勿論世間も驚いたことでしょう。ルカ19章のザアカイは同じ徴税人ですが、彼は好奇心からであったとしても、自分の方からイエスに近寄って行く勇気がありました。しかしマタイはイエスがこの町におられることを知りながら、その勇気がなかったのです。だから主イエスの方から近づいて下さいました。自分のような者を、神の国を広める大切なご用のために用いると言ってくださったのです。彼の喜びは計り知れないものだったでしょう。「わたしに従いなさい」と言う招きの言葉によって、マタイは古い罪の自分に死んで、新しいキリストにある永遠の命に生まれ(甦っ)たのです。あの中風患者も、このマタイも自分の方から罪の告白が出来なかったのに、イエスの方からその機会を与え、そして救って下さいました。どうして救われたと断言することが出来るのでしょうか。神は罪人を愛しておられますが、その罪を良い加減には出来ません。罪は罰せられるべきです。だから神はマタイの罪を罰し、マタイを救うために、マタイのために御子イエス・キリストをお遣わしになりました。マタイがイエス・キリストに従うことによって、自分のために罪の贖いとして十字架に死んで下さるイエス・キリストの目撃者として、証人として選ばれたと言うことなのです。だからマタイの心は喜びで一杯でした。マタイはこのように「過去を葬って」、新しい第一歩を踏み出しました。

 彼が神の国を広めるためにした最初の仕事は、同業者や世間の落ちこぼれと見なされている人々を主の許に呼び集め、伝道集会を開くことでした。良い意味で類は友を呼んだのです。勿論主も喜んでこの仕事を成し遂げて下さいました。彼が捨てた過去は徴税人という仕事であり、そのために抱いていた長年の劣等感です。

 彼はまた「過去を生かす」ことも忘れません。彼が生かそうとした過去は紙とペンです。かつて彼は紙とペンをもってユダヤ人の同胞を苦しめ、そのために人々の怒りを買い、罪に罪を重ねていたかも知れませんが、今はその紙とペンを持って、もっと多くの人に主の恵みと救いが及ぶようにと、個人的な救いの体験の証を含めた主の物語(福音書)を書き残してくれました。これによって私たちは主に出会えたのです。主を讃美しましょう。ここで話を終えたいところですが、主の救いと恵みの光を素直に受けることの出来ない人々の話がまだ続いています。ファリサイ派の人々がこの麗しい出来事に影をさしました。多分マタイの救いの出来事を、本当の意味で、まだ理解しきれていない弟子達の心の内を読みとるように、ファリサイ派の人々は彼らに言いました。「どうしてお前達の先生はあんな連中と一緒に食事などするのか」。すると、弟子達が答えようとする前に主ご自身口を開いて、あの有名な譬えをもって神の御心とは何かをお教えになりました。「医者を必要とするのは病人である私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。ルカは「罪人を招いて悔い改めさせるためである」と書き添えています。

 アーサー・ホーランドと言う牧師は、背中に入れ墨を持つ元ヤクザと呼ばれる人々に福音を伝え、クリスチャンとなった彼らと共に、同じように一度は道を踏み外した多くの人々に救いの福音を伝えて全国を伝道して回っておられます。彼らは手作りの木の十字架と共に「俺達の親分はイエスさま」と書いた幟(のぼり)を高々と掲げて、イエスさまが自分たちに何をして下さったかを証しています。それでも中には彼らを正しく評価しない人がいるそうです。どういう人が評価してくれないか、それは世間ではありません。むしろ教会の人達から、陰口やつぶやきが聞こえてくるそうです。アーサー牧師を売名行為だとか、背中の入れ墨を見せることで、却ってキリスト教会に誤解を招いてしまうと中傷されるそうです。マタイが救われた時代も今も人間の心は何も変わってはいないのです。私たちは口では、イエスさまはどんな人でも救ってくれますと言いながら、心の中に「あの人は決して救われないだろう」と決めてかかってしまう頑なさがありはしないでしょうか。ファリサイ派の非難の言葉は現代のキリスト教会からも聞こえてくるとアーサー牧師は嘆いています。

 「一期一会」という美しい日本語があります。「この機会を逃して私の人生の中に二度と経験できない出会い」という意味です。聖書に見る「出会い」とは、多くの場合神との出会いであり、それによってその人の人生が全く変えられるという意味での出会いです。主イエス・キリストとの出会いこそ一期一会ではないでしょうか。この機会を逃して二度と巡ってこないかも知れない人生の一大転機なのです。マタイはこの人生の一大転機を良い加減に考えませんでした。イエスさまの弟子となったマタイは、もはや自分の過去に捕らわれてはいません。今日多くのクリスチャンの中にさえ、いつまでも自分の過去を引きずって劣等感に苛(さいな)まれている人を見かけます。主イエス・キリストが「あなたの罪は赦された」と十字架の上から力強く宣言して下さっているのに「わたしはもしかしたら、まだ救われていないのではないか」と思い煩う人がいます。神さまのみ前に最も大きな罪は不信仰です。人の内に信仰を生み出すことの出来る聖霊に逆らうことほど大きな罪はありません。

 また教会の中でクリスチャンが信仰仲間の過去をいつまでもほじくり返して「あの人は本当に救われているのかしら」とさばくことも悲しい罪です。この物語の中でも過去に捕らわれる不自由さの中に縛られていたのはむしろファリサイ派と呼ばれる宗教家でした。主イエスは彼らに対してホセア6:6の御言葉を引用して「形ばかりの祈りや礼拝ではなく、聖書をしっかり読め」と諭(さと)されました。私たちももっと謙りましょう。詩編に「わたしはあなたにむかって、罪を犯すことのないように、心の内に御言葉をたくわえました」(詩編119:11)と言う1節があります。また使徒パウロも「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3: 13−14)と言っています。 

 祈りましょう。

 天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。私たちはマタイの救いの出来事を通して、過ぎ去った日々をいつまでも引きずったまま劣等感に陥ることも、また懐かしむことも、ただあなたを悲しませることであることを学ぶことが出来ました。今あるは主の恵みと感謝する心を失うことのないように、私たちを常にお導き下さい。またあなたは兄弟を愛するとはどう言うことかをも教えて下さいました。あなたが私たちをあるがままに受け入れて下さったように、私たちも兄弟をあるがままに受け入れる愛と謙った心で御霊による交わりを深めて行くことが出来ますように。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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