2000年3月26日

主日礼拝メッセージ

死から生へ 

聖書: マタイ9 : 18〜26 (新約 p.15) 

 
                   メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

  今読みました聖書は5/7の礼拝でも読みたいと思います.ここには2人の死から生還させられた女性の物語があるからです。今日はその一人、「ある指導者」の娘さんを中心に学びましょう。 彼女の父親はマルコ、ルカ両福音書と合わせて読むと会堂長という職業で、名をヤイロと言います。それに主イエスに助けを求めに来た時は危篤ではありましたが、まだ死んではいなかったのです。主イエスが彼の求めに応じて歩き始めると群衆も押し合うようにしてついてきました。ヤイロは露払いとして群衆を押し分けながらイエスのために道を作り、一刻も早く自宅へ招き入れたいと焦っていたに違いありません。ところが途中思わぬアクシデント(ヤイロにはそう見えたのでしょう)に遭遇したために、歩き始めたその時、家からの使いが来て、「娘さんはお亡くなりになりました。もう先生を煩わすにはおよびません。」と絶望的な報告をします。ああ何ということでしょうか。会堂長はその場にくずおれたことでしょう。

 しかし主は言われます。「娘は死んではいない。眠っているだけだ」(マルコ5:41)と。そして娘に「タリタ・クム(娘よ、起きなさい)」と御声をかけると、娘は確かに起き上がりました。

 私たちも祈りながら神の助けを待つのに、神は一向に答えて下さらないので、「どうなっているの?」と神にうらみの一つでも言いたくなります。その間にも状況は絶望的に変化して行きます。しかし主は今も生きて働いて下さっているのです。「タリタ・クム」と力強い御声をかけて、「死から生へ」と私たちを待ち運んで下さいます。信じましょう。


【本 文】  死から生へ 

                        

今司式者に読んでいただいた聖書は5月7日の主日礼拝(主イエス・キリストが日曜日の朝早く復活されたことを記念して礼拝をささげる日なので、キリスト教会ではこの日を日曜日と言う代わりに「主の日」と呼んでいます)でも読みたいと思っています。というのはここには2人の女性の物語が重なり合っているからです。今日は先ず一人の少女の物語を通して神さまの御言葉に聴きたいと思います。マルコとルカを参考にして読むと、少女の名前は分かりませんが、12歳であったこと、父親はヤイロ(「彼は光を与える」という意味)と言って「会堂長」という職業の人であったことが分かります。父親はその名の通り、これまでずっと会堂長として献身し、神の栄光のために忠実に働いていました。会堂長と言われているこの人達の仕事は、毎週の安息日礼拝(ユダヤ教では今でも土曜日を「安息日」として、この日は商売も仕事も勉強もやめて心と体を休める日、また神さまの全ての恵みを感謝して礼拝をささげるべき日として守ります)のプログラム作成、礼拝の指導、説教者の手配、会堂整備等を中心としていました。今日私たちの教会で言う礼典・礼拝執事のような人のことです。彼にとって神への奉仕も生き甲斐でしたが、家族そろってこの奉仕に専念できることは何よりも感謝の日々であったことでしょう。ヤイロは「わたしの幼い娘」(マルコ5:23)と呼んでいます。これは「目に入れても痛くないほど可愛くて仕方がない」という意味だそうです。それもそのはずルカ8:42によれば「ひとり娘」なのです。かけがえのない娘でした。今日までこの家族は貧しくとも幸せでした。所がどうしたことでしょう。この家の最も高価な宝であるひとり娘が病に倒れ、今は危篤状態なのです。マタイでは既に娘は死んだのに「おいでになって手をおいてやってください。そうすれば生き返るでしょう」と、この父親の信仰が強調されていますが、マルコやルカの記録によると、娘はこの時危篤状態ではありますが、まだ死んではいなかったのです。かわいい娘が苦しんでいる。父親として不憫で見ておれないのです。「そうだ、イエスさまの所に行ってお願いすれば何とかなるのではないか」、そう思ってやってきました。

ここのところをマルコ5:21−24で読んでみましょう。

「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう』そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた」

 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫ってきた」となっています。ヤイロはイエスの露払いとして、群衆を押し分けるようにして家路を急ぎました。一刻も早くイエスさまを自宅に招き入れて娘を助けてもらいたいと焦るばかりでした。所が途中思いもかけない事件が彼の行く手を塞ぎました。12年もの間重い病に冒されていた女性がイエスさまの衣の房にそっと触ったことで主イエスが足を止めたからです。ようやく再び歩き始めたその時、家から使いが来て、娘が死んでしまったから、もうイエスさまの手を煩わせなくとも良いというのです。恐らくその瞬間ヤイロはその場にくずおれたことでしょう。全てが無駄骨であったと絶望したことでしょう。 

 しかし主イエスはなおもヤイロを励まして彼の家へ行き、居合わせた人々にも「娘は死んだのではない。眠っている」と言われます。ヤイロにとって道中の遅れは不幸に不幸の追い打ちと見えたことでしょう。しかし主イエスにとってこの遅れは、神の全能の力を示す良い機会となりました。マタイには省略されていますが、イエスさまは死人となった娘のそばに近寄り、その手をとって「タリタ・クム(口語訳;「タリタ・クミ」)」と言われました。「少女よ、起きなさい」という意味です。そしてお言葉通り少女は目覚めました。起きあがりました。生き返りました。

 私たちも祈りながら神の助けを待つのに、神は一向に答えて下さらないので「どうなってるの?」と、つい神に恨みの一つも言いたくなります。その間にも状況はどんどん絶望的に変化して行きます。しかし主は今も生きて働いて下さっているのです。「タリタ・クミ」と力強い御声をかけて「死から生」へと私たちを持ち運んで下さいます。どこまでも神を信じて待ち続けましょう。

ここに一少女の詩があります。読む度に心が慰められ、力づけられます。ご紹介しましょう。

         「名前」

       私の名前は久美    父がマルコ伝にある
       「タリタ・クミ」をとって  つけてくれました
       いつか天国の門を   くぐるとき  
       イエスさまご自身が  「タリタ・クミ」と言われましょう
       その時再び生き返り  自由な体になるのです
       二千年前の女の子のように 
        
       私は体が不自由です
       でも私は知っています
       神のお力でいつか自由に
       なれることを…   

祈りましょう。

 天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。この世には私たちの理解を超える不条理なことが余りにも多すぎてどのように乗り越えて行けばよいのか戸惑います。あの会堂長ヤイロは礼拝を整えるために、全身全霊を打ち込んで働いておりました。家族を上げてこの奉仕のために献身していたと言っても良いかと思います。それなのに突然不幸が舞い込みました。一粒種の子どもの命が風前の灯火、いや露と消えかかりました。全ての希望が吹き飛ばされました。絶望という言葉はこの人びとのために用意されていたのではと読む者の心が締め付けられます。そしてこの世を見回すと、何と多くの人が同じように打ちひしがれていることに気が付きます。しかし、主はその時、その所にあって「タリタ・クミ」と一人ひとりの手をとって起きあがらせて下さいます。私たちは今信じます。あなたはどこにあっても生きて働いて下さっていることを。死から生へと回復させて下さる方であることを。

 この感謝と讃美を私たちの主イエス・キリストの御名によっておささげ致します。アーメン。


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