2000年4月9日

主日礼拝メッセージ

ここは祈りの家 

聖書: マルコ11:11,15〜19

 
                   メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 イエス様は真の神を礼拝する神殿が商売人によって踏み荒らされ,しかもそれを取り締まる立場の神殿当局者(サドカイ派の祭司、学者)が黙認、放置しているのを見て、これでは神殿というよりもまるで金品だけでなく魂まで奪う強盗の巣のようになってしまっていると嘆いて、それでも人々に向かってでなく、台や腰かけを縄で鞭のように打ち、彼らを追い出してしまいました。 実はこのことが後にイエス様を憎む人々に、ますます激しい殺意を抱かせることになりました。しかしイエス様にとって神殿はただの飾り物ではありません。「すべての人のために備えられた家」であり、「主なる神の宮」なのです。全ての人の祈りの家は一部の人に踏みにじられてはなりません。死を覚悟したイエス様の闘いなのです。

 あなたにとって礼拝堂は真にイエス様の喜んで下さる聖別されたものになっているでしょうか。心身に障害を持つ人、高齢の人、外国人にとって入りにくい、利用しにくい会堂のままにしてはいませんか。また何よりもあなた自身の心にバリアを作ってはいませんか。食べ物ではなく、人に対して好き嫌いを作ってしまってはいませんか。イエス様は実に命をかけて、「ここはわたしの家だ」と言い、そして「ここは全ての人にとって祈りの家だ」と言われました。仙川キリスト教会は全ての人の為の祈りの家となっているでしょうか。


【本 文】  ここは祈りの家 

         

 エルサレムではその日、過越祭という大きなお祭りを控えていましたが、境内は相変わらず人々の賑やかな声、鳥や牛や山羊の鳴き声も混じっています。人々はそうした賑わいの中でとても楽しそうです。でもただ一人イエスさまだけはとても不機嫌な顔をしておられます。縄でムチを作り、それを振り上げて商売人の台や腰掛けをひっくり返しました。また商売用の動物や鳥を商売人と共に追い出しました。イエスさまはどうして人々が折角楽しんでいるお祭りをこんな風に台無しにしてしまわれたのでしょう。このことから仙川キリスト教会に、また個人的に語られているメッセ−ジがあります。共に聴いて参りましょう。

1. ここは主なる神の家−会堂管理の心 

 そもそもエルサレムの宮は天のお父様に向かって心静かに祈り、御言葉を聴く所です。またそれぞれの経済力に応じて罪の悔い改めの証として、あがな贖いの牛、羊、山羊、鳩などをたずさ携えてくる決まりになっていました。家畜が手に入らない人は献金をすれば良いのですが、但し神殿で献金するにはギリシャ貨幣やローマ貨幣という異邦人世界で流通しているような貨幣ではいけません。ユダヤ貨幣でないと受け付けてもらえないのです。しかし人間は神さまの御前に礼拝を捧げる時でさえ横着になれる者です。自分の罪のあがな贖いしろ代となる家畜を連れてくることが面倒になりました。重いからとか体裁が悪いからとか色々な理由をつけて少しでも楽に礼拝を捧げようとします。商売人はそこに目を付けます。遠くから来る人の為にはよく肥えた良質の牛も羊も山羊も鳩もあるよ、と境内に店を構えました。またその隣には犠牲の家畜を買う人の為にはお釣りの小銭があるよ。献金したいが、ユダヤ貨幣を持っていない人の為にもここに来れば大丈夫と、高い手数料を取って交換する両替商が軒を並べました。地方からエルサレムのみやもうで宮詣に来た善男善女はこうした商売人の口車にまんまと乗せられて手軽な礼拝、心のこもらない観光気分の礼拝で自己満足しています。こう言うことは何とかしなければならないのですが、肝心の神殿当局者もどうすることも出来ません。彼らは既に商売人の言葉巧みな説得と賄賂の言いなりになり、今ではそのお金が神殿維持の重要なドル箱になってしまっているからです。

 しかしイエスさまはこのことに目をつぶっている方ではありません。彼らをことごとく追い出して言われました。「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と。この『 』でくくられた部分は旧約聖書のイザヤ書56 :7からの引用です。イエスさまが旧約聖書を用いて、「ここはわたしの家である」と言われたことに注意して下さい。この事件はその場に居合わせた人々の頃に強烈な印象を与えました。弟子の一人ヨハネもこの事件を報告する記事の中で(ヨハネ2:13−22)、詩編69:9はこの日のための預言だったのかと言っています。その預言とは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」というものでした。現に神殿当局者は逆恨みをしてイエス暗殺計画を練り始めました。今でもイエスさまともあろう方が、こんなにまで感情的になるのかといぶかる人がいます。確かに他の3つの福音書を読む限り、そのような感想を持っても仕方がないと言えるかも知れません。しかしこのマルコによる福音書はもっと正確にその時のことを記録してくれています。

 11節を見て下さい。イエスさまは神殿内の腐れ切った状況を見てとっさ咄嗟にこのようなことをなさったのではありません。その前日、あくまでも冷静に「神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので」一旦ベタニヤの村に出て行かれました。皆さんがイエスさまの立場であればどうしますか。自分の家が何の権利もない人の土足で踏み荒らされているのです。好き勝手に振る舞われているのです。このまま黙ってなお十数時間放っておきますか。私ならほんの30分でもいやです。すぐに出て行ってもらいたいです。イエスさまはどうしてなお十数時間もそのままにして置かれたのでしょうか。祈る為です。父なる神に現状を報告して、その御旨を尋ね求める為です。父・子・聖霊は三つの位格を持つ一人の神さまです。この三位一体の神さまがご自身の中で一つの方向を定めるに必要な時間を持たれたのです。聖き神であると共に、愛の神は罪深い者の滅びるをなお惜しんで下さいます。罪人にその罪を示して悔い改めを迫り、救いの道を開いて下さる協議の時間が、あの十数時間であったと私は読みとりました。「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる」と詩編(82:1)に書かれている通りです。それが一旦ベタニヤに引き下がると言う行為です。そして翌日宮に上り、相変わらずの光景見て主は深い悲しみを覚えて、縄のムチをもって終わりの日の裁きの予告をなさったのです。

 

2. 全ての国民の祈りの家-礼拝者を受け入れる心

 ここは「すべての国民の祈りの家だ」と言われました。実は当時のエルサレムの神殿は限られた人にしか開かれていませんでした。身体に障害を持つ者、不道徳な生活をしている者、反社会的な者、外国人等にの為にはこの門は固く閉ざされていました。彼らは神を汚す者だからと言うのがその理由です。しかし現実にはもっと汚れた人々がこの宮を牛耳り、ほしいままにしています。商売人がそうです。賄賂を受け取りながら神殿を管理する当局者達こそ最も汚れた者です。彼らによってこの宮は強盗の巣になってしまいました。彼らこそ「すべての国民の祈りの家」という御言葉に違反する管理の仕方をしているのです。主の宮が実は偽善と汚れの温床となり果てています。縄のムチを受けている間はまだ神の忍耐と寛容の時です。終わりの日、恐ろしい裁きの御座に引き出される時が迫っています。

 私たちの教会はこの会堂を本当に主の宮、全ての民の祈りの家として清く保っているでしょうか。主の宮についての御言葉を聴くと、私たちは色々なことを考えます。バザーを教会ですることはいけないのだろうか。ガレージセールはどうだろうか。有料でコンサートをするのもいけないのだろうか。料理教室を開くことはどうなのかしら。そうではないのです。バザーをしようが、ガレージセールをしようが、有料のコンサートをしようが、料理教室をしようが、それが人々の魂の救いに本当につながっており、そこで得た収益が主の御前に恥じないものであり、またその用途も清められたものであれば、そのことで良心に咎めを感じることはありません。それよりも私たちがもっと注意しなければならないことがあります。この会堂が、まこと真に全ての国民の祈りの家となっているかどうかと言うことです。予算がないからと言う理由で階段や段差が一部の人を礼拝から遠ざけて来なかったか気がかりです。また目の見えない人や耳の不自由な人、口の利けない人、外国人を退けるような教会形成や会堂管理になっていなかったか、今日の御言葉によって探られる思いです。何よりも私たち自身に特定の人しか受け容れられない心のバリヤができていないでしょうか。主の弟子をクリスチャンと呼びます。クリスチャンは一切を主イエス・キリストに明け渡していますから、その人の心は既に主の家、聖霊の宮です。私たちの心は最早全ての人のための祈りの家でなければなりません。そうであれば、クリスチャンの心にバリアがあること自体おかしな話です。もしもあの人は好きだが、この人はどうも苦手だというような苦手意識と言う古い私が心の中心をなしているなら、それをも主にあって清めて頂きましょう。全ての人を心に留めて祈る者として頂きましょう。 

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(コリント3:16−17)

 

3. ここはあなたのための祈りの家−礼拝者の心

 第三に聞き逃してならないメッセ−ジがここに秘められています。私たちの教会の礼拝堂にはベンチの背中に聖書と讃美歌が備え付けられています。お年寄りや病弱な人、体の不自由な人にはとても有り難いことです。点字の聖書や讃美歌も備えられています。手話の出来る信徒が与えられていることも感謝です。しかしこの聖書・讃美歌は今申し上げた方々、初めて教会に来られた方、せいぜい求道中の方々の為であって、まだ若く、しかも教会のメンバーになって久しい人の為にあるのではありません。自分の聖書・讃美歌を持って礼拝に来るようにしましょう。イエスさまがこの御言葉を通してあなたに命じておられるのです。イエスさまが縄のムチをもって商売人を追い出されたのはイスラエルの会衆に対するチャレンジでもあります。これ以後会衆はエルサレムに詣でる毎に、自分で礼拝に必要なものを持ってこなければならなくなりました。牛も羊も山羊も鳩も、そして献金の為の貨幣も全て自分で準備してこなければならなくなっりました。重いとか体裁が悪いと言っておれません。面倒なことになったものです。

 そうです。主の僕の道は面倒なことの為にと開かれた道なのです。愛する兄弟姉妹。あなたも来週から備え付けの聖書や讃美歌をあてにしないで、自分のものを持ってきなさいと主は言われます。自分の聖書ならいくらでも書き込みが出来ます。破っても誰も何も言いません。手垢で汚れるほど自分の聖書に愛着を持って下さい。赤や黄色や青い線で一杯にして良いのです。飢えた者が食べ物を求めるように、乾いた者が水を慕い求めるように聖書を貪り読んで下さい。 手軽な礼拝、形式的な礼拝、心のこもらない礼拝という誘惑から守って下さいと祈りつつ主の御前に出て行きましょう。主イエス・キリストはあの重い十字架を私たちの為に担ってゴルゴダの丘、刑場へと歩いて下さったのです。聖書と讃美歌が重いなどとどうして言えるでしょうか。 

祈りましょう。

 天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。主よ感謝します。あなたは教会を全ての人に開かれた宮として下さいました。ここは趣味の会ではありませんでした。ここは気が向いたら来ればよいと言うものでもありませんでした。実に全ての人はこここそが帰るべき家であることを今知りました。ここ以外にあなたの御国に行くべき道がないことを教えて下さいました。主御自ら「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしによらなければだれも父のもとに行くことはできない」と教えて下さったからです。十字架を通らずしてあなたに至る道はありません。どうぞ死に至るまで私たちがこの道を歩む者でありますようにお導き下さい。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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