2000年4月16日

主日礼拝メッセージ

十字架の言葉 

聖書: コリントの信徒への第1の手紙1章18節

 
                   メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 「十字架の言葉」とは、十字架に死んで葬られ、そして三日目に復活されたイエス・キリストの物語で、旧新約66巻の聖書のことです。旧約聖書がどうして「十字架の言葉」か不思議に思われるかも知れませんが、旧約聖書は「メシア(キリスト;救世主)がこの世に来て、全ての人を神の愛と平和に導き、天の御国に招き入れて下さる」と預言しています。そして新約聖書は「ユダヤのべツレへムの家畜小舎に生まれ、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で十字架につけられて死んで葬られ、復活されたイエスこそ、真の救主キリストである」と証言しています。

聖書はそれを読む全ての人を十字架の前に立たせます。「この十字架によって、あなたの罪は赦された」と言い、そして主が葬られていた墓の前に立たせて言います。「復活のイエスがあなたに定められた神のさばきとしての死と滅びから解放し、救い、永遠の命を賜った」と言っています。この聖書からのメッセージを信じるか、信じないかにあなたの運命はかかっています。信じる者は救われて永遠の命を与える神の力を体験し、信じない者はさばかれて永遠の死(滅び)に落ちていくのです。あなたは今心を開いて救い主イエス・キリストを信じ、受け入れて下さい。祝福を祈ります。


【本 文】  十字架の言葉 

 

 今日はキリスト教会の暦で言う「棕櫚の日曜日(Palm Sunday)」です。ろばの子にまたがってエルサレムの門を入ってこられるイエス・キリストを人々は棕櫚の枝を持って歓迎したことがその由来です。教会カレンダーは太陰暦に基づいていますから、月の満ち欠けで計算すると、約2千年前の今日がその棕櫚の日曜日と言うことになるわけです。そして5日後の金曜日に十字架につけられるまでの日々を主イエス・キリストの「受難週」と言います。私たちはこの地上で最後の1週間を過ごされたイエス・キリストを心に留めて、一日一日を過ごしたいと思います。特に今週の金曜日はキリストが十字架に上げられた記念すべき日ですから、その夜特別の祈祷会を開くことにしています。是非おいで下さい。所で大抵のキリスト教会では会堂の屋根や、礼拝堂の中にも十字架が見られます。カトリック教会では礼拝堂内の十字架に必ずと言って良いほどそこにキリストがはりつけにされています。主イエスが私たちの為にこのように苦しんで下さったのだと言うことを具体的に知る良いお手本と言えます。その意味で、まさに今週の金曜日を「キリスト受難日」と呼ぶに相応しいのです。しかしこの日をまた「Good Friday」とも言います。これはプロテスタント諸教会に相応しい言い方だと思います。なぜならプロテスタント教会の会堂の屋根にも室内にもキリストがはりつけられたままの十字架を見ません。プロテスタント諸教会の理解では、イエスさまはいつまでも十字架にかけられたままではないからです。既に復活されたのです。プロテスタント諸教会は十字架を思うと共に、復活されたイエス・キリストを思い、罪の赦しと共に、永遠の命が私たちのために約束されている事実を確信するのです。だからこの金曜日は悲しい顔をして過ごす日でもなければ、暗い顔つきで喪に服する日でもありません。むしろ「感謝すべき日、最良の金曜日、Good Friday」なのです。

 「十字架の言葉は」と、この手紙の筆者である使徒パウロは言います。イエス・キリストは十字架にかけられながら、なおそこでいくつかの心に留めておくべきお言葉を残されました。それは7つありますから、後世の人はこれを「十字架上の七言」と呼んでいます。しかしパウロが言うところの十字架の言葉とはそれも含みますが、もっと豊かな内容を持っています。それは主イエス・キリストの全生涯に亘るお言葉です。つまり新約聖書そのものです。いや新約聖書は旧約聖書を完成させる書物であり、旧約聖書は新約聖書へと導いてくれる書物ですから、旧約聖書・新約聖書併せて66巻全書をもって「十字架の言葉」と言うことが出来るのです。実に聖書はそれを読む全ての人を十字架のイエス・キリストへと導きます。そして全ての人を彼が葬られた墓へと導きます。十字架の御前に立つ時、聖書は「この方を見よ、この方こそあなたの罪のためにおぞましい十字架に釘打たれなければならなかったのだ」と教えます。墓の前に立つ時、聖書は私たちに「あなたは何故生きた方を死人の中に訪ねるのか。主イエスはよみがえ甦ってここにはおられない」と教えます。これを福音(良い知らせ)と言います。

 最近のマスコミは新聞でもテレヴィジョンでも余り嬉しいことを伝えてくれません。警察官や公職にある人々の不祥事、医療ミスによる相次ぐ死亡事故、政治家の憲法軽視や差別的発言、保険金詐欺事件、中高生のいじめや恐喝事件、かと思えばお年寄りが社会の隅っこに追いやられて、若者に道を譲らなければならない不条理が報告されています。諸外国では幼い子どもの人権が鳥の羽根よりも軽く扱われ、教育の機会も十分な栄養も保証されないまま劣悪な環境と条件の中で働かされています。数え上げればきりがないほど心を暗くさせるニュースばかりです。

 しかし聖書はそのような暗い世相にも輝く「世の光キリスト」を紹介しています。この悪と不正と汚れと偽りに満ちた罪の世界に、神の独り子イエス・キリストは人間の姿をとってくだ降ってこられました。そして全人類が受けるべき裁きとその罰を代わって受けて下さいました。これが十字架の出来事です。十字架によって全ての人は神の裁きを免れる道が開かれました。この出来事の知らせこそ「十字架の言葉」、即ち福音と言います。

 十字架の言葉はイエスを罪からの救主、永遠の命を与える神と信じる者に神の力を経験させることが出来ます。 既にご存じの方も多いでしょうが、アルフレッド・ノーベルは毎日多くの炭坑夫が坑内の落盤事故の為にその尊い命を奪われていることに心痛めて、彼らを何とか救いたいとの一心から発明した「破壊的な爆発物」に何という名前をつけようかと考えた結果、ここに書かれているギリシャ語の「デュナミス セウー」(神の力)にヒントを得て「ダイナマイト」と銘々したと言うエピソードは余りにも有名です。ノーベル博士は自分の業績を誇りたい為に「人間の力」ではなく、「神の力」と銘々しました。彼がいかに聖書を注意深く読む人であったか、またそれを自分の研究活動の中に取り入れて実践する事を忘れない謙虚で敬虔な神の人であったかが偲ばれます。神の愛と救いを経験した人は決して自分の力を過信しません。どこまでも神に聴き、神に従うことを第一とする神の僕に徹することでしょう。「十字架の言葉は、わたしたち救われる者には神の力です」とはそう言う意味です。ところが「滅んでいく人」がいます。真面目に神を考えない人、人生を考えない人も当然含まれますが、人生を独力で生きて行こうと真面目に考える人であっても、使徒パウロから見れば、惜しいかな「滅び行く人」なのです。このような人はただイエス・キリストを信じるだけで救われるとはなかなか信じられないのです。

 インドに1人の真珠取りの名人がいました。彼には大の仲良しの英国人宣教師の友達がいました。1週間の内ただ1日を除いて2人はいつも一緒でした。2人が離ればなれになる日、それは日曜日です。宣教師は勿論教会の礼拝に行きますが、真珠取りは海に潜っています。宣教師はこれまで何度も彼を教会に誘いました。そして聖書のお話を聞かせました。真珠取りは喜んで聴いていましたが、どうしてもイエス・キリストを信じようとしません。彼は古くからあるインドの宗教から離れられないのです。インドの宗教では何の努力もしないで、ただ信じるだけで救われるというようなことはおおよそ考えられません。だから教会に来ないし、イエス・キリストを信じようとしないのです。何年かして宣教師は定年を迎えて本国へ帰ることになりました。真珠取りはとても残念がりました。心は悲しみで一杯です。しかしお別れの日は近づいてきます。最後の日、真珠取りは宣教師にそっとあるものを渡しました。それは今まで見たこともない立派な真珠です。これまでの友情に対する感謝のプレゼントだというのです。宣教師は驚きました。「こんな高価なものを只で頂くわけにはゆかない。返しても受け取らないと言うのなら、せめてお代の半分でも支払いたいから値段を言ってくれ」と尋ねましたが、真珠取りは「これは自分にとって宝物だから値段のつけようがない。だから受け取ってくれ」と言います。宣教師も「だめだ。いくらかでも払わせてくれ」と、お互いに譲りません。その内に真珠取りは悲しそうな顔をしたかと思うと、頬からスーッと一筋涙が流れ落ちました。そして今まで決して誰にも言わなかった彼の秘密を打ち明けました。昔自分の跡取りになってくれると信じていた自慢の息子がある日、海中深く潜ったまま、二度と浮かんできませんでした。一生懸命さがした末、海底で大きな真珠をしっかりと握ったまま息絶えている息子の変わり果てた姿がそこにありました。真珠取りは宣教師に言いました。「これがその真珠だ。これは息子の命そのものだ。値段など付けられるものか。だから買い取るなどと悲しいことを言わないでただで受け取ってくれ」と聞きません。 

宣教師もまた涙を流してこの話を聞いていましたが、やがて一言「兄弟、これは有り難く受け取ることにしよう。その代わり君も値段のつけようのない私の宝物を、文句を言わずに受け取ってほしい。私の為に、君の為に十字架に死んで甦って下さったイエス・キリストこそ神さまからの愛のプレゼントだ。君にとってこの真珠が値段のつけようのないたった一つの宝物であるなら、そしてそれをただで受け取れと言うなら、君も何の努力も必要ないからイエス・キリストを君の救主として今受け入れて信じてほしい。そうすれば私は安心して本国に帰ることが出来るし、いつの日か天国で君に再会することが出来るのだから」と言いました。愛する兄弟姉妹。これこそ真に生きた十字架の言葉です。今日あなたも神の最高のプレゼントであるイエス・キリストを信じ受け入れて下さい。 祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。今朝あなたの独り子、イエス・キリストの物語である十字架の言葉を聴く恵みに与ることが出来た幸いを心から感謝します。あの真珠取りが自分の独り子の命と引き替えの真珠を惜しげもなく宣教師にプレゼントしたように、あなたは今朝、私たち全ての者にあなたの宝である救主を惜しみなく与えて下さいました。主よ感謝します。私たちは今この方を救主として信じ受け入れますから、今日からの毎日をただあなたを第一に従う者とならせてください。私たちの力ではなく、あなたの御力によって私たちをお導き下さい。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む