2000年4月23日

主日礼拝メッセージ

キリストは復活された 

聖書: コリントの信徒への第1の手紙15章12-19節

 
                   メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 偉大な宗教家、またその開祖、教祖の為には立派な墓があり、そこへの参拝、巡礼は絶えません。イスラム教の開祖マホメット然り、仏教の開祖釈迦然りです。だがイエス・キリストの墓は誰も知りません。墓もないのに世界中にキリスト教会があり、毎年クリスチャンと呼ばれるキリストの弟子が増え続けているのは何故でしょう。墓があるということはその人が確かにこの地上に生きていたことの証です。イエスの為にはそれがないのです。ではどうして彼がこの地上に生きていたことを証明できるのでしょうか。聖書です。聖書は神の子イエス・キリストの証言集です。その中の一つがこのコリントの信徒への第一の手紙です。筆者パウロは15章冒頭で「生活のよりどころとしている福音…。最も大切なこととして…伝えたのは、わたしも受けたことです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」と力強くキリストの復活を目撃した五百人以上の信徒仲間の一人に自分を加えて証言しています。復活したキリストを信じ、拝むのに墓は必要ないのです。復活は十字架の贖罪に対する領収証です。天国への通行証です。そしてキリスト教はこの世で終わる宗教ではないことを証明する群れです。


【本 文】  キリストは復活された                

 

 偉大な宗教家やその開祖、教祖の為には立派な墓があり、そこへの参詣、巡礼は絶えません。イスラム教の開祖ムハンマッド然り、仏教の開祖釈迦然りです。だが、イエス・キリストの墓は誰も知りません。墓もないのにその教えは世界中に及び、教会が存続し、今なおクリスチャンが増え続けています。何故でしょうか。墓があるということは、その墓の下に眠る者が確かにこの地上に生きていたことの証です。しかしイエス・キリストの為には墓がありません。ではどうして彼がこの地上に生きていたことを証明できるのでしょうか。それは聖書です 。日本語の「聖書」は本来の言葉で言うと、「遺書」、「契約書」、「証言集」等と読むことが出来ます。或いは「本の中の本」とも言います。実に聖書こそ神の子イエス・キリストの証言集なのです。その一つがこの「コリントの信徒への手紙一」という書物です。この手紙の15章冒頭を口語訳で読ませていただきます。

 「兄弟たちよ、わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を 、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしが宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと。ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その後、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである」

 以上から分かるように、イエス・キリストの墓はないはずです。甦られたのですから。 墓は確かに故人がこの地上に生きていたことの証ですが、それはまた彼はついに死の力の前に屈したことの証明でもあります。しかし聖書はイエス・キリストがその墓石を取りのけて、死の力を完全に駆逐したと、勝利の宣言をしています。それはイエス・キリストが十字架に死んで下さったことによって、私たちの罪は赦され、甦えられたことによって、私たちを捕らえて離さなかった死と滅びの力から永遠に解放されたのです。ある人々が言うように、人間は死んで何かに生まれ変わる、いわゆるりんねてんしょう輪廻転生するわけではありません。桜の木は生きている限り、それは毎年花を咲かせるでしょう。しかしそれが枯れ果てた後、その横から新芽が生えてきたとしても、それは親の樹とは異なる別の桜なのです。ましてや人間は死後別の人間や他の生き物、犬や猫や牛や馬に生まれ変わると言うことはあり得ないのです。神は一人一人に固有の存在、人格を与えておられます。その人は死んでもその人なのです。これに別の人格を与えるとは聖書のどこにも書いてはいません。もしその人がイエス・キリストを信じて生涯を終わるなら、彼の肉体は一時期葬られて墓の下に眠るでしょうが、やがて終わりのラッパの鳴り響くとき、神は彼の霊を呼び覚まし、墓を開き、その骨に新しい栄光のからだを与えて甦らせるのです。そのことはこの書の15:50−55に書かれていますので、これも口語訳で読ませていただきます。

 「兄弟たちよ。わたしはこのことを言っておく。肉と血は神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬもの必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死よ、お前のとげは、どこにあるのか』」

 以上のように、クリスチャンにとって死と葬りは、土にまかれた種がやがて美しい花を咲かせる時を待つように、栄光の体に復活させられるその日に備えてひととき一時眠りにつくことなのです。それもこれもイエス・キリストが先ず甦って、その道備えをして下さったからです。もし復活を信じられないまま教会生活を続けている人がいるなら、その人は、この世の生活でキリストにあって単なる望みを抱いているだけの人生を引きずっているわけです。この世に残して行かなければならない物に絶対の価値を置き、それにしがみつく生き方を続けているなら、墓の向こうに行ってしまったとき、取り返しのつかない悔いを残すことになります。

 今日、この礼拝の中で、神の御言葉である聖書によって心の目が開かれ、罪に目覚めた一人の女性がその罪を悔い改め、イエス・キリストを救主と信じてバプテスマをお受けになります。もしイエス・キリストをただ2千年前の歴史上の人物と理解する程度であれば、バプテスマを受けようなどと言う気持ちには決してなれません。バプテスマとは 、水の中に全身を浸水められることによって、旧い罪人の自分は十字架のキリストと共に死んで葬られるのです。再び水から引き上げられるとき、復活のキリストと共に新しい永遠の命に生まれることを象徴するのです。それは彼女にとってイエス・キリストは最早歴史上の偉人ではなく、全ての全てとなられた神と告白している証です。昨年のクリスマス礼拝で信仰告白されたことを、神がよしとして、今バプテスマをお許しになりました。そしてこれによって、彼女は永遠に神に覚えられる一人に数えられるのです。イースターに相応しいこの時です。主に感謝しましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

週の初めの日、主イエス・キリストは葬られていた墓から甦り、実に500人以上の弟子達に同時に顕れて下さったと言うことです。更にはパウロにも顕れたと言うことです。そして今、この仙川キリスト教会において、今野高子姉が旧い罪人の衣を脱ぎ捨てて、甦りのイエス・キリストによって、永遠の命に与るバプテスマをお受けになります。主よ感謝します。どうかまだイエス・キリストを信じるに至っていない者がこの中にいましたら、今野姉妹に続き、共に天の御国への旅路を始めたいと言う思いをお与え下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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