2000年4月23日 主日礼拝メッセージ

あなたは平和ですか 

ヨハネによる福音書20章19〜23節(p.210)

メッセージ・ 高橋淑郎牧師   

                   

【要 旨】  

 マグダラのマリアを初め女性の弟子たちは主イエスの甦りの事実を素直に喜んでいました。しかし、10人の男性(使徒と呼ばれていたのですが)は信じることができないで、内鍵をかけた家の中で脅えていました。そこへ「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と挨拶しながら入ってこられました。そして手と脇をお見せになりました。弟子たちは「主を見て喜び」ました。その手、その脇の傷こそ私たちの罪の為の傷であったと認めました。彼らのうち誰一人、復活の主がどうして手と脇の傷を消すことができなかったのかと考える者はいません。この傷こそ誰一人代わることのできないもの、いや代わることの許されない神聖なものなのです。この傷、苦痛、死こそ全世界の贖罪の紛れもない証なのですから。弟子たちの喜びは、主はこんな卑怯な者、汚れた者、自己愛の固まりのよう罪人の私の為に死んで甦って下さったのだという感謝からくる喜びでした。主にある喜びが内に与えられた時、彼らの心の恐れは取り去られ、平安に満たされました。心の平和は神との平和です。だから主はペンテコステ(使徒言行録2章)の約束の徴として、神の息(聖霊)を注いで下さったのです。

今も様々な心配事や恐れで不安な心の人はいませんか。その人はどうぞ復活の主によって導かれますように。


【本 文】  あなたは平和ですか                 

 

 マグダラのマリヤを初め女性の弟子達が主イエス・キリストは甦ってガリラヤで待っておられると告げました。しかしそれを信じ、受け入れることの出来ない一団がありました。その一団とはこともあろうに、かつて主イエス・キリストから「使徒」と言う特別の職に任ぜられた人々です。彼らの内の一人ユダはイエスを裏切り、後に後悔の余りくび縊れて死にました。トマスと言う弟子もそこにいません。残るは10名です。彼らはまだエルサレムにぐずぐず止まって、とある家に集まっていました。祈る為でしょうか。聖書はそうとは書いていません。「ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて」じっと息をひそめています。復活のメッセ−ジは彼らを元気付けてはくれませんでした。それどころか、主イエスが十字架にかけられた。次は自分たちの番かも知れないと言う恐怖心が彼らの心をがん雁じ字がら搦めにしていました。一人では心細いので、一つ所に集まっていただけなのです。主を愛している心に嘘はないでしょう。しかしそれ以上に自分が可愛いのです。

 主イエス・キリストはその彼らを訪ねて下さいました。「あなたがたに平和があるように」という挨拶と共に手の釘跡と、脇腹に残された槍の傷跡をお見せになりました。その時弟子たちの心に再び笑顔と心の平安が戻ってきました。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。短い言葉ですが、この家の中に、平和の光が満ちあふれている様子が手に取るように伝わってきます。弟子達はイエスの傷を見て喜びました。彼らはその傷を見た時、イエスの死の意味が分かったのです。イエスの手と脇はイエスの苦しみ、痛みを表しています。死から甦られたイエスがどうしてこの傷も始末できなかったのか等と弟子達は考えません。イエスの十字架、そのための傷、そして死は誰も代わる事のできないもの、いや代わることの許されない、実に神聖な傷と痛みと死であることを彼らは悟ったのです。だから喜べたのです。この喜びには涙が込められていた事でしょう。こんな罪深い者の為に、こんな卑怯な者の為に、こんな自己愛の固まりのような者の為に、この方は十字架に釘付けられて下さったのか。死んで下さったのか。そして今甦って下さったのかという感激の喜びなのです。こうして世界初のイースター礼拝は夕方に実現しました。

 弟子達の喜びは、同時に与えられた使命に対する目覚めとなりました。それは罪の赦しを告げるメッセンジャーとして派遣されて行くことでした。主は弟子達に息を吹きかけると同時に、派遣の言葉を与えると共に、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦さないまま残る」と言われました。主の弟子の共同体(教会)には特別な権能が与えられました。それは「罪の赦し」の権能です。人々の罪を赦すことも、赦さずにおくことも教会の意のままという権能です。しかし、考えてみて下さい。主の手の釘跡、脇の傷跡を見て、主の弟子もそして今日の教会も最早沈黙するのみです。一体罪赦された主の弟子の誰が、同じ罪人を赦さずに置くことが出来るでしょうか。教会は人をさばく群ではありません。共に主イエス・キリストの十字架の御許に導かれて主を喜び、主に感謝するのみです。だから主が与える平安と喜びは私たちを受け身のままにはしておきません。能動的に主に仕える者と変えられて行くのです。

 私たちの教会は、現在朝の主日礼拝だけを捧げていますが、夕拝をもってはいません。ある教会の牧師は「私たちの教会では今までもこれからもずっと、夕拝を持ちます。プログラムもメッセ−ジも朝と同じです。そして出席者も殆ど朝と同じです。でも続けています。時々初めての方や、朝出席できなかった人が来られることもあります。主イエスが甦られた日、女性信者たちは素直に信じてその夜は安らかな眠りについていましたが、男子の信者達は信じられず、明日の日を迎えられるかと怖じ気づいていました。だから私たちの教会では今も復活が信じられない為に、無駄な争いに明け暮れ、或いは自分の健康の事、仕事のこと、家の中のゴタゴタで心取り乱している人の為に、教会の入り口を開けておくのです」と証をしておられました。マグダラのマリヤたちが復活の主に出会えた喜びと同じです。彼らはすぐに男の弟子達に主は甦られたと告げました。10人の弟子達も今新たな使命の下に派遣されて行くのです。その時主イエスは彼らに「聖霊を受けよ」と息を吹き入れられました。これは天地創造物語の記事を思い起こさせてくれる感動的な瞬間です。創世記2:7を読みますから聞いていて下さい。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と。

 人間創造の時に吹き入れられた神の息を、今新しい人の群であるキリストの教会が創造される日、神の息が吹き入れられるのです。これは具体的には使徒言行録2章の「ペンテコステ」の出来事を待たねばなりませんが、その日の為に備えられた約束の印と言う事が出来ます。最近は会社の業績を伸ばす上で、ゆっくりと時間をかけて新入社員を育てているゆとりのない時代です。ではどうするのかというと、派遣人材会社からその道のエキスパートを一定の期間契約で雇うという方法を採っています。主イエスが今日この世界にキリストの教会を建てておられるのは、主の弟子達にこの世の人が持っていない特別の賜物を与え、福音のエキスパートとして、平和のメッセンジャーとしてこの世に派遣する為です。

 イスラエル、アラブ、パレスチナの国々では日本語にして「平和」という二文字の付く名前の人が多いようです。「シャローム」、「サラム」、「サレム」と言った具合にです。そしてまた挨拶の言葉としても愛用されています。しかしまたこの地域ほど戦乱に血塗られたところも他に類を見ません。血で血を洗う地域だからこそ、平和の尊さを噛みしめているのでしょう。「シャローム」は「あなたに平和がありますように」という挨拶であり「あなたは平和ですか」という安否を問う意味でもあるのです。今朝この礼拝においでになったあなたにも二つの意味でご挨拶申し上げます。「シャローム」。

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。主の弟子達が家の中に閉じこもって、唯自分の命や立場を守ることに汲々としているときは何も起こりませんでした。しかし御子イエス・キリストがその家に入ってこられて「シャローム」と挨拶を送り、手と脇の傷跡を示して下さったとき、彼らの心は平安と喜びに満たされました。そして大胆に出て行って「主は甦られた」と福音を告げる者へと変えられました。主よ、今も心に平和も喜びも持たない人が実に多くいます。先ず私たちにこの喜び、この平安で満たして下さい。そしてここから遣わして下さい。

私達の主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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