2000年6月11日
主日礼拝メッセージ
あなたは神の神殿
聖書: 第一コリント3:16 
              メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 今日はキリスト教会にとって2千回目の誕生日です。キリスト教会はイエス・キリストを救主と信じた人に水のバプテスマを授けます。一般に言う「洗礼」です。これは生涯にただ一度受けるものです。「神の賜物と召しとは変えられることがない」と聖書に書かれているからです。もう一つのバプテスマは火のバプテスマです。これを「聖霊降臨」と言います。2千年前神は弟子たちの上に聖霊として降り、一人びとりを聖霊の炎で潔めてくださいました。火のバプテスマによって心も行いも唇も潔められた弟子たちは世界の国々の言葉で、「神の愛、イエス・キリストの救い、聖霊による清い交わり」を受けよと証言(説教)しましたから、その日3千人もの人々が罪を悔い改め、イエス・キリストの救いを受け入れて水のバプテスマを受けました。

 こうしてキリスト教会が誕生したのです。水のバプテスマはクリスチャンにとって個人的な新しい命の誕生ですからそれはただ一回の経験で十分です。火のバプテスマは聖霊による潔められた教会の誕生ですから2千年前に実現しました。一回で十分なのです。使徒パウロはそのことを「知らないのか」と読者に尋ねます。教会(イエス・キリストを信じる弟子たち)はあの瞬間に「神の神殿」、聖霊の宮とされたのです。だから教会のメンバーは人を非難する群れではなく愛し、赦し、受け入れる群れなのです。


【本 文】  あなたは神の神殿               

 

 クリスマスおめでとうとか、イースターおめでとうと言いますが、聖霊降臨おめでとうという挨拶は余りしません。でも、本当はこの日もおめでたいのです。ハレルヤなのです。そうです、今日はキリスト教会が2千歳になった記念すべき誕生日なのですから。

 イエス・キリストが公の伝道活動を始める前に、その先駆けとして神さまに選ばれた人がいました。その名はヨハネと言います。真面目な人で、人々に「罪を悔い改めて神に立ち帰りなさい。そしてバプテスマを受けなさい。そうでないと神さまの恐ろしい審きがあなたの上に下ります」と、半ば脅しめいた言葉で伝道するものですから、人々は神さまも恐いが、ヨハネも恐いので、言われる通り悔い改めてバプテスマを受けました。それで誰言うとなく、彼のことを「バプテスマのヨハネ」とあだ名で呼ぶようになりました。このバプテスマのヨハネは、また常日頃から「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力ある方がおいでになる。この方は、聖霊と火によっておまえたちにバプテスマをお授けになる」(ルカ3:16)と教えていました。果たしてイエス・キリストが天に上げられて10日目の五旬節と言われるお祭りの日、主の弟子たちは聖霊と火によるバプテスマを受けました。

 教会に来た人は聖い神さまの御前に自分がどれほど罪深い者であるかを認めないでいられなくなります。しかし、イエス・キリストがこの自分に代わって既に十字架の上にその罪を解決して下さっていたことを知ると、その人は罪を悔い改めてイエス・キリストを救主と信じ、教会の前で「イエスは主である」と告白します。これによってその人は救われるのです。救われた人は喜びをもってバプテスマを受けます。これが聖書に示されている水による全身浸礼としてのバプテスマです。「水のバプテスマ」と言います。しかし人は弱いので、あんなに喜んでバプテスマを受けて信仰生活を始めたのに、この世は罪の誘惑に満ちていますから、その後も罪を犯します。ではあの日、あの時に受けた水のバプテスマは無効になるのでしょうか。本当は無効にされても仕方がないのです。しかし、聖書には「神の賜物と召しとは変えられることがない」と書かれています。あの日、あの時のバプテスマは無効にはされないのです。自分ではもうクリスチャンと呼ばれる資格はないと思っていても、もしそこで心から悔い改めるなら、そして「立って、父のところへ帰って、こう言おう。天のお父様、私はあなたに対して取り返しのつかない罪を犯しました。でも、あなたの外に私の帰るべき所はないのです。あなたの子どもと呼ばれる資格、クリスチャンと呼ばれる資格はありません。どうか、私を赦して下さい。あなたの召使いとしてあなたの側に置いて下さい」と祈るなら、神はその人の罪を咎めるどころか、立ち帰ったその人を歓迎して神さまの食卓へと招いて下さいます。

 その時のメニューは超豪華です。「このパンを食べなさい。これはあなたのために十字架に釘打たれたわたしの体を記念するものである。この葡萄ジュースを飲みなさい。これはあなたの罪のために十字架の上で流されたわたしの契約の血を記念するものである」と、そうです。教会が定期的に行う「主の晩餐式」です。神の賜物と召しは変えられることがないのです。だから水のバプテスマは1回で十分なのです。教会には全ての人を天国へ招き寄せる鍵がイエス・キリストによって授けられているからです。今から2千年前に聖霊が降って、キリスト教会が誕生した瞬間から、イエス・キリストは「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」と言われました。この岩とは一人びとりの「罪の悔い改めと信仰告白」のことです。岩のように揺るぎない信仰を神は求めておられます。しかし私たちの信仰はなかなか岩のようには参りません。だからその頼りない信仰を岩のように揺るぎないものにする為に、それを支えて下さる聖霊が教会に降って下さいました。

 讃美歌の中には「聖霊よ、私の内に今も降り給え」という祈りの込められた歌詞が多いのですが、しかし本当はこのような祈りをささげる必要はないのです。一人びとりの水のバプテスマが1回で有効なように、聖霊は既に2千年前に教会を誕生させ、今も教会を通して、クリスチャン一人びとりの内に生きて働いておられるのです。聖霊のバプテスマも1回で有効なのです。聖書に帰りましょう。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と使徒パウロは言っています。原文には「あなたがは知らないのか」という強い疑問の言葉で始まっています。これは当然知っているはずと思っていたのに、相手は何も分かっていなかったのかという驚きの疑問です。だから強い調子にならざる得なかったのです。

 私たちは知らなければなりません。この仙川キリスト教会は神の聖霊が臨在する神殿、神の宮だと言うことを。

 聖書に「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に自由を得るためである。ただその自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。…わたしは命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。…キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互いに挑み合い、互いにねたみあって、虚栄に生きてはならない」とあります(ガラテヤ5:13,16,24−25)。

 教会はこのように聖められた群です。しかし完成していないのも事実です。教会の歴史の汚点は、聖書の言葉を自分に与えられた戒めと恵みの言葉と受け取る前に、兄弟姉妹をさばく武器として挑み合い、妬み合うことにありました。そうであってはなりません。御言葉はいつも十字架のキリストへと私たちを導く恵みの道しるべです。教会のメンバーは人を非難する群ではなく、十字架のキリストに倣う群れです。人を愛し、赦し、受け入れる群れなのです。祈りましょう。

 全能の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。今日の佳き日を感謝します。聖霊が降り、それによって教会が生まれました。ある意味で今日はキリスト教会に与えられた最高のお祭りの日だと思います。なぜなら聖霊が降って下さらなければ、私たちは神の愛も主イエス・キリストの救いも、それが私たちとどういう係わりがあるのか知らないままでした。聖霊によらなければ「イエスは主である」と告白する思いを持つことも言葉も知らなかったからです。天のお父様、どうか神の宮であるこの仙川キリスト教会を、そして私たち一人びとりを、今日より聖い生活を送ることが出来るように助け導いて下さい。

私達の主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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