2000年6月25日
主日礼拝メッセージ
行きて告げよ
聖書: マタイ10:5-15 
              メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 今日は神学校週間を覚えて礼拝をささげるにふさわしいみことばをいただきました。12使徒は主の宣教命令を受けています。これが献身者のなすべき奉仕の内容であり、生活であると言われました。複数の仕事の片手間で出来ることではありません。パートタイマーでもなけれぱ、或いはフリーターでもありません。遣わされた場で全身全霊与えられた仕事に、しかも24時間打ち込む者でなければならないのです。退路は断たれたのだ。主の命令の言葉を間きながら弟子たちはそう実感したことでしょう。現在神学校に学ぶ学生たちもまた同じです。全国、全世界に遣わされている伝道者、牧師たちも同じです。

 荒野を旅するイスラエルの民は渇きの極みに、「モーセよ、わたしたちをエジプトから導き出したのは、ここで渇死させるためだったのか」とつぶやきました。渇き苦しんでいるのはモ-セとて同じです。しかし、モーセは「私だって・・・ 」とは言いません。さすがはリーダーです。彼はこの二重の苦しみをどのように解決したでしょうか。祈りです。全能の主に全てを申し上げた時、神は奇蹟を起こして下さいました。神学生、伝道者、牧師は先ず「平安あれ」と派遣されたところで出会った人々に挨拶することから始めなければなりません。これこそ献身者の使命だからです。


【本 文】  行きて告げよ 

  

 今日は神学校を覚える礼拝に相応しい御言を頂きました。主は12使徒を宣教に遣わすにあたり、献身者として語るべき言葉、奉仕の内容、生活態度と言った訓練を与えておられます。主に仕える奉仕は片手間でできる事ではありません。遣わされた場で全身全霊、与えられた仕事に24時間打ち込む者でなければなりません。「退路を断たれたのだ」、主のご命令を聴きながら弟子達はそう実感したことでしょう。しかしそれはまた特権でもあります。この世の人々が何百万、何千万のお金を積み上げても手に入れることの出来ないものを、弟子である故にただで受け、またただで与えることが出来るのです。

 ある宗教の教祖が座禅を組んだ状態で空中に浮かんだとか、また別の宗教の指導者が拝むだけで病人を癒すことが出来たとか言う噂をTV番組で取り上げているのを見た小学生の息子が、牧師をしている父親に「お父さんも何かやったら?そうすればもっと信者さんも増えると思うよ」と言ったそうです。子ども心に礼拝出席者が少ない教会の現状を見て心を痛めていたのかも知れません。しかし牧師は彼にこう答えたそうです。「お父さんは毎週毎週講壇から力の限り、癒しのメッセ−ジをしているよ。少ないけれどイエスさまを信じる人が与えられているのが何よりの証拠だよ。信者さんたちは病気になってもイエスさまが一緒にいて下さることを信じているから心が慰められているし、たとえ死ぬことがあっても天のお父様が迎えて下さるという希望を持っているから、少しも恐がらないでその日を迎えることが出来るのだよ」と。その言葉を聞いて子どもはイエスさまこそ本当の神さまだと確信を深めました。数年前全国牧師会の朝の祈り会で聞いた話です。

 この世で色々な経験を積んだ人が今神学校で学んでいます。彼らもまた最早後戻りは許されません。退路を断たれたのです。「献身」とはそう言うことです。彼らはこの先自分の家も、老後の保障も、ましてや巨万の富を持つことは出来ないでしょう。しかし巨万の富を積んでも得られないものを彼らはただで受け、それをただで与えることの出来る権威を授けられていることも事実です。だから余分なものを一切持って行く必要がないのです。必要なものはその都度主ご自身、派遣先の教会を通して備えて下さるのです。神学校週間もその一つです。私たちの連盟には現在3つの神学校があります。東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校、そして西南学院大学神学部です。そこに学ぶ者たちは或いはアルバイト、或いは日中目一杯働き、疲れた体に鞭打ち、眠い目をこすりながら学んでいます。彼らもまた退路を断たれました。今は主のなすがままに委ねています。しかしもし彼らが志半ばで、ただお金がないと言うだけの理由でその学びを断念しなければならないとするなら、それは彼らの罪ではなく、連盟に連なるおおよそ332の諸教会・伝道所の罪です。彼らの経済は連盟諸教会・伝道所の信徒にかかっていると主は言われます。現在無牧師の教会・伝道所が沢山あります。やがて彼らはそのいくつかの教会に遣わされて行く事でしょう。その日のために彼らは今神学校でマタイ10:5−15の訓練を受けています。彼らを送り出した教会の一つである私たちもしっかり学び取り、送り出した責任を全うしなければなりません。

 今一つ、先程の子どもメッセ−ジのモーセについて今少し学びたいと思います。モーセは「この奴隷の地エジプトから逃れて自由の地カナンに行こう。カナンこそが乳と密の流れる平安な日々を保証する土地だから」と呼びかけてイスラエルの人々を導き上りました。しかし目的とするカナンはまだまだ先です。行けども行けども荒れ地をただ歩かなければなりません。それに加えて様々な困難が襲ってきます。荒野を旅するイスラエルの民は渇きの極みに「モーセよ、わたしたちをエジプトから導き出したのはこの荒野で死なせる為だったのか」と呟きました。渇きに苦しんでいるのはモーセとて同じです。しかしモーセは「わたしだって……」とは言いません。さすがはリーダーです。自分も同じ状況に置かれているから人の痛みが分かるのです。彼は自分自身の渇きと、人々の自分に対する不満という二重の苦しみをどのように解決したでしょうか。祈りです。全能の主に全てを告白しました。その時神は奇跡を起こして下さいました。

 主イエスは今遣わそうとする12使徒が、これから経験するであろう困難に打ち克つ勝利の秘訣を伝授して下さいました。「平安あれという祈りを込めた挨拶こそ第一のメッセ−ジであり、何にもまさる勝利の道である。この言葉を携えて、私の遣わす所、出会わせる人の所に行って告げなさい」と言われます。主は今も生きて神学生・伝道者・牧師、そして信徒にこのメッセ−ジを与えておられます。私たちは私たちの目指すべき乳と密の流れるカナンの地、即ち天の御国で永遠の憩いに与るまで、この世にあって苦しい信仰の旅路を続けなければなりません。しかしその厳しい試練の日々にも主は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そううすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろうわたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28−30)と「内なる平安」で満たして下さるのです。「あなた方に平安があるように」と言う、この力強い挨拶の言葉こそ疲れた魂に安らぎと癒しを与えてくれるのです。

 木曜祈祷会は、後もう少しで「ヨハネによる福音書」を読み終えます。この後どこを学びましょうかと皆さんに相談しましたら「ローマの信徒への手紙」が良いという返事が返ってきました。それで私は今猛勉強の最中です。この学びをしていて気が付いたことが一つあります。それは教会が成長し、争い、分裂、分派から守られる秘訣は平和の神によって、一人びとりの心が一つに溶け合わされることだと言うこと。そしてサタンはこの言葉が一番嫌いだと言うことを発見しました。だから使徒パウロは力強くこの手紙の結びの部分でこう書き送っています。

 「あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(ローマ16:19−20)

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

今朝私たちは神学校週間とは何かと言うことを改めて学ぶことが出来ました。この国の失われた羊を正しく導くために羊飼いを呼び集め、訓練を与え、そしてお遣わしになるためでした。彼らが羊飼いとしての訓練を全うすることが出来るために、彼ら献身者を送り出した教会の責任の重さもまた学ぶことが出来ました。主よ感謝します。あなたは平和の神です。あなたに来る者もまた平和を尊びます。どうかこの教会がいつも「平安あれ」と互いに挨拶を交わす者でありますように。

主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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