2000年7月2日
主日礼拝メッセージ
「最後まで耐え忍べ」

   マタイ10:16〜25

           メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 「使徒」の語源がここに見えます。使徒とは「遣わされた者」という意味です。この使徒達の上に聖霊が降り、キリストの証人として彼らは遣わされました。そしてキリスト教会が誕生しました。使徒達によって教会の基礎が築かれ、教会は更に教会を産み、このようにして今や全世界にキリストの教会が産まれ、尚も伝道し続けています。そもそも教会とは「(キリストに)呼び集められた群れ」という意味です。教会が教会を産むとは、まだ聖書の神、イエス・キリストの救いを知らない人たちの所に行って福音(イエス・キリストの救いの知らせ)を宣べ伝えるということです。

 しかし教会(一人びとりのクリスチャン)はほとんどの場合歓迎されることはありません。多分敵意を持って迎えられ、時には暴力的な迫害さえ覚悟しなければならないでしょう。信仰の為に捕えられ、裁判にかけられることさえあります。公権力がこの世の法律を駆使して蛇のような知恵を持ってその信仰が誤りであり、甚だ危険でさえあると脅しをかけてくるでしょう。けれども私たちには蛇にもまさる全能の神の智恵が与えられています。鳩にまさる素直(直訳:純粋)さで、誰もそれ以上反論できない言葉を語らせる父の霊が勝利に導いて下さいます。迫害を宣教拡大(教会成長)の機会として終わりの日(イエス・キリストの再臨)を待ち望みながら、忠実に主の業に励みましょう。


【本 文】 【主日礼拝】                  2000.7.2

「最後まで耐え忍べ」

 

 あるギリシャの哲人(アリストテレス)は「正しい人は善良な市民になることは出来ない」と言いました。善良な市民はどのような場合にも国家を支持し、国家に従います。時には国家のために命さえ投げ出すのです。だから国家はいつでも私たちに善良な市民になることを求めています。しかしキリストは私たちに国家のために善良な市民である前に、神の御前に正しい人間であることを求めます。

 

1.  使徒−それは遣わされる者

 神の御前に正しい人のあるべき姿の第一は、キリストにめされて選ばれ、遣わされている者であるという自覚を持つことです。イエス・キリストは使徒たちに「あなたがたを遣わす」と言われます。この「遣わす」という言葉こそ「使徒」、即ち「遣わされた者」の語源です。使徒たちの上に聖霊が降り、キリストの証人として彼らは遣わされました。そして教会が誕生しました。使徒たちによって教会の基礎が築かれ、教会は更に教会を産み、このようにして今なお全世界にキリストの教会が産まれ、成長を続けています。教会が教会を産むとは、まだ聖書の神もイエス・キリストも知らない人々に福音(イエス・キリストの救いの知らせ)を宣べ伝えることによって、救われる者が増し加わることです。そもそも教会の語源は「(キリストに)呼び集められた群れ」から来ていることを忘れてはなりません。そして教会はまだイエス・キリストの救いを知らない人々の所に行って福音を宣べ伝える為に遣わされる群れであることを忘れてはなりません。

 

2.  使徒−それは敵の中に遣わされる者

 神の御前に正しい人のあるべき姿の第二は、どのような人のところにでも遣わされる人です。国際社会ではお互いの関係が良好な時に、その平和が長く継続するようにと派遣されますから相手国はこれを歓迎します。

 しかしキリストの大使たち(教会)は最初から険悪な空気の中へ入って行かなければなりません。歓迎されることは無いと言った方が良いでしょう。多分敵意をもって迎えられ、時には暴力的な迫害さえ覚悟しなければなりません。信仰のために捕らえられ、裁判にかけられることもあるかも知れません。公権力がこの世の法律を駆使して蛇のような知恵をもって、脅しをかけてくるかも知れません。けれども蛇にもまさる全能の神の知恵が与えられています。そして鳩にもまさる素直さ(直訳;純粋)さで、誰もそれ以上反論できないような言葉を与えて下さいますから、私たちは何をどう言おうと慌て惑うことはないのです。語らせるのは天の父なる神の霊だからです。

 ある牧師は自分の懐に飛び込んできた若者を命を張って守ろうとしたために、公権力に誤解されて逮捕されました。それでも自説を曲げなかったので、彼は送検され、裁判にかけられました。しかし彼はどうせ法律のことは分からないのだから、ここは天の父にお任せしようと、分厚い六法全書を前に座っている検事、裁判官を前に、彼はただ聖書1冊を頼りに被告席に着きました。当時の新聞は「牧会権」か、「社会の秩序」のどちらが優先されるのかとにぎにぎしい活字が踊っていました。結果は聖書1冊を手に戦い抜いた牧師の勝利でした。判決は被告人無罪でした。1975年2月20日のことです。

 聖書に帰りましょう。蛇はサタンの象徴です。サタンの賢さに勝つ者はこの世に誰もいません。サタンは人間よりも聖書のことを良く知っています。神を恐れることでは生半可な信仰者に引けを取りません。そのようなサタンにも弱点はあるのです。サタンは聖書を知っていますが、聖書に聴こうとしません。神を恐れてはいますが、悔い改めることをしませんから、その終わりは滅びです。蛇のような賢さとは聖書をしっかりと読むに限ります。しかしそのままでは結局サタンと同じ運命を辿ります。聖書を知っている事と、聖書に聴く事は違うからです。鳩のような素直さが求められます。御霊のような純粋さに学ぶことが求められます。聖書1冊を携えて裁きの庭に立った牧師は御霊の語らせる言葉を聖書に見出したのです。聴き取ったのです。

 神はこの世に素直で善良な市民よりも、神の御前に正しい天国の市民を求めて居られるのです。

 

3.  終わりの日はある。

 神の御前に正しい人のあるべき姿の第二は、神の定められた終わりの日を信じる人です。最後まで耐え忍べと主は言われます。神を信じ、イエス・キリストに自分を明け渡した者の最後は全き救いです。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも生きて居られるからです。この方は一度来て十字架に救いの道を開き、死んで甦られて天に引き上げられましたが、また来てイエス・キリストを信じる者を彼と共に天の御国へと引き上げて下さいます。しかしサタンとその支配の下にある者の最後は滅びです。

 あなたは今日どちらを選びますか。当然イエス・キリストと共にある終わりを待ち望んで居られることでしょう。それなら礼拝を尊び、祈祷会を大切にして下さい。どうしても祈祷会に来ることが出来ない人は祈って、どうすれば祈祷会に出席できるか御霊の知恵を求めて下さい。それでも方法が見つからないなら、牧師に相談して下さい。牧師は一番良い方法をあなたにお示しすることが出来ます。人の前でキリストを証をするのに聖書を知らなければ話になりません。父なる神の霊は確かに何をどう語れば良いかを教えて下さるのですが、それは聖書を通して教えると言うことです。聖書を読んでいなければ、御霊が教えて下さる言葉が聞こえないのです。日常の備えなくして非常事態に対処できません。牧師は何の準備もなく講壇に立ってメッセ−ジを取り次ぐことは出来ません。証しもそうです。自分の証がいつか、前もって執事会報告を見ておき、その日に備えて自分の生活を、周囲を見回して聖書に聴き、祈り、語るべき言葉をお与え下さいと祈りの内に備えて置くなら、証の言葉は不思議に与えられるのです。

 これが終わりの日に備えることにつながります。人々があなたを悪し様に言う時、それはあなたを否定しているのではなく、あなたの内にいる神の御前を否定しているのです。その人のために執り成し、最後まで耐え忍びましょう。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

今朝私たちは自分が何のために生かされ、どこに向かって進んでいるのか、はっきりと示されました。私たちはあなたによって救いに与り、召され、選ばれたのです。それぞれこの地上でどんな仕事をしていようが、目的は一つ、置かれたその場があなたから遣わされた宣教の第一線だと言うことです。滅びに向かってひたすら無為な人性を走り抜けようとする人々の救いのために、どのような困難が待ち受けていようが、証をし続けることが出来ますように、そのためにこそもっともっと御心を学ぶ熱心を与えて下さい。私たちにとって永遠の救いである終わりの日に備えて最後まで耐え忍ぶ者とさせて下さい。

主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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