【礼拝メッセ−ジ要約】                           2000年7月9日

恐 る べ き 者

マタイによる福音書 10章26-33節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                   

 教会はたとえこの世で迫害にさらされても、「恐れるな」と繰り返し(23,28,31節)言って下さる主イエスのお言葉が支えとなっていますから平安です。本当の恐れなければならない方が誰であるかを知る者の強みです。この世に魂までを滅ぼす力はないからです。

 幕末の頃、あるお百姓の父親が死にました。本来なら喪主は直ちに代官所に届け出て、神社かお寺のどちらかで葬儀一切を執り行う決まりになっていました。しかし息子はそのことを十分承知していながら、敢えて御法度破りを強行して、キリスト教式で執り行いました。この家は隠れ吉利支丹でしたが、この時公然とそれをやってのけたのです。彼は直ちに捕らえられて代官所に連行されました。厳しい尋問と情け容赦ない拷問の末、葬儀のやり直しと仏教への転向を迫られました。しかし彼は「お代官さま、私はお殿様やお代官様の御命令にはどんなことにもお従いするつもりです。上に立つ者の権威に従うことはゼウスさまのお心だからでございます。しかし魂のことはいかにご威光を持ちましてもどうにもなりません。神はただお一人なのでございます」ときっぱり断りました。勿論判決は張り付け獄門です。すると彼は「私のように取るに足りない者がキリストさまと同じ十字架にかかれるとはこの上ない光栄でございます」と喜び、神妙に裁きに服しました。そして刑場では「参ろうや、参ろうや、パライソ(天国)へ参ろうや」と神を讃美しながら息を引き取ったと言うことです。厳しい吉利支丹ご禁制の時代に、このような勇気あるクリスチャンがいたのです。

 

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【礼拝メッセ−ジ】                            2000年7月9日

恐 る べ き 者

マタイによる福音書 10章26-33節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

私たちはキリストの弟子として、また教会のメンバーとして招かれ、選ばれました。選ばれた者には特権と責任が伴います。特権とは王なるキリストの大使であり、天国への鍵を預かっている者だということです。責任とはその天国へ一人でも奥の人が入ることができるように福音を宣べ伝えることです。たとえその為に迫害されることがあっても「恐れるな」と繰り返し言って下さる主イエス・キリストのお言葉(23,28,31節)が支えとなっていますから私たちの心は平安です。本当に畏れなければならないお方が誰であるかを知っている者の強みです。この世には魂まで滅ぼすことの出来る力はないのです。

 

一、 命の主である方を畏れよ

 主イエス・キリストは「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(24〜25節)と言われました。私たちの師であり、主であるキリストに倣う道、それは十字架の道でした。先ず主ご自身がその時代の人々から疎まれ、蔑まれて十字架に死なれたのです。しかし主は三日目に墓から甦られました。イエスにとって十字架の道は「恥と絶望の道」ではなく「勝利と栄光の道」でした。死に打ち勝たれた方なので「人を恐れてはならない」と言う言葉に説得力があります。だからキリスト教会は人を恐れないのです。いえ恐れて等いられないのです。しかしこの世には、今はまだそれは隠されています。覆われているもの隠されているもの、それを聖書的には「奥義」と言います。暗闇で耳打ちされるように、この奥義を弟子であり、僕である使徒とその教会に打ち明けて下さいます。「神がこの世界をこよなく愛しておられること、この世は神の独り子によって救われる。いやもう既に救いの道が開かれている。このイエス・キリストを信じる者は救われる。しかし信じない者には裁きとそれに続く地獄が待っている。天と地とその中に住む全ての者を創造された神だけが魂も体も地獄で滅ぼす権威を持っておられるからだ」と言うこの事実を明るみで、屋根の上で言い広めなさいと言われます。この奥義を明るみに出し、屋根の上で語ることを聖書的には「啓示」と言います。

 アフリカで野生動物の保護に情熱を燃やしている人がいます。彼らは日夜密猟者から動物を守り、生態系を維持するために働いていますが。動物の方は分かりません。彼らにとっては密猟者も保護官も同じ敵としか見えないので、時には彼らを守っている保護官自身がけがを負わされることも、殺されることもあります。教会に対する世の中の反応も同じです。

 使徒パウロは自分がイエス・キリストによって救われた経験を何度も証しました。使徒言行録26章でもその証を見ることが出来ます。彼はその所で自分が何の為に救われたのか、その理由をイエスご自身のみ言葉で語っています。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」(26:17〜18)。イエスの弟子となった彼はその後生涯をかけて小アジアからマケドニア、ギリシャ、そしてローマに至るまで福音を宣べ伝え、ネロ皇帝の時代に殉教者の列に加えられました。

 日本でも幕末の頃、あるお百姓の父親が死にました。喪主となった息子は直ちに代官所に届け出て、神社かお寺のどちらかで葬式を執り行うべき決まりを十分に知っていながら、敢えてキリスト教式で葬式をした為に捕らえられました。厳しい尋問と情け容赦のない拷問を加えられ、葬式のやり直しと仏教への転向を迫られました。しかし彼は「私はお殿様やお代官様の命令には全てお従い致します。上に立つ者の権威に従うことはゼウス様のお心でもあるからで御座います。けれども魂のことは如何にお上のご威光を持ちましてもどうにもなりません。神はただお一人なので御座います」ときっぱりと断りました。勿論裁きは獄門張り付けの刑と降りました。お百姓は「私のように取るに足りぬ者がキリストさまと同じ十字架にかかれるとはこの上ない光栄で御座います」と神妙に裁きに従う旨返答しました。そして刑場では「参ろうや、参ろうや、パライソへ参ろうや」と神を讃美しながら、息を引き取ったと言うことです。厳しい切支丹ご禁制の時代にもこのように勇気歩くがいたのです。

 

二、 小さき者にも目を留める主を畏れよ

今も昔もキリストを証するクリスチャンを世間はまるでご飯の上のハエを手で払うように、うっとうしがります。当時イエスを神と認めないユダヤ人にとって、キリスト教は飛んでもない新興宗教でした。ギリシャ・ローマ社会では皇帝カイザルを神としないキリスト教会は危険なグループです。しかしまだ数の上でも力の上でも一羽の雀ほどの存在でしかありません。雀はどこの国でも一番安い値段で売られている生き物です。ルカ12:6によると、店によっては5羽の雀が2アサリオンで売られていたようです。2羽なら1アサリオンでもその倍を買うと、1羽おまけしてくれるのです。クリスチャンはもしかしたらそのおまけのような、値段の付けようもない真に小さな存在でした。だからクリスチャン一人死のうが、教会が無くなろうが、この世は大して気にも留めません。しかし、神の御前にはその1羽の雀にも似た1人のクリスチャンでさえ忘れられることはありません。でも同時にイエスはここでユーモアたっぷりにこう言われます。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。世間がクリスチャンをおまけの1羽の雀というなら、イエスの目には世間の人々も多くの雀なのです。しかしこれは未信者とクリスチャンを対立の関係に置く意味で言われているのではありません。そうではなく、神の目には雀1羽も髪の毛一筋も尊いのです。1人のクリスチャンも1人の未信者もどちらも神の目に尊い存在なのです。その小さき者にも目を留め、慈しんで下さる神の御心を畏れなさいと言われたのです。

 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

あなたの秘められたご計画はキリストにおいて明らかになりました。それは、神は愛であると言うこと。信じる者に限りない命を与え、あなたの御許に引き上げて下さる救主であると言うこと、しかし終わりまであなたを拒む者の体も魂も地獄で滅ぼす審き主であると言うことでした。使徒パウロが証しましたように、このような時代に私たちを生かし、招き、弟子として選んで下さったのは、あなたの御心を世に向かって宣べ伝えることです。主よ、どうぞあなたが愛して下さるこの教会が、今あなたの使命に答えて出て行く者とならせて下さい。

主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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