【主日礼拝メッセ−ジ要約】                           2000年7月30日

「耳ある者は聴け」

マタイ11:2-15

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 約】                   

 バプテスマのヨハネという人がいました。この人は旧約聖書を通して神さまがこの世に遣わすと約束しておられる救主(キリスト)を待ち望んでいました。また人々にも「この方を迎える心の準備(悔い改めてバプテスマを受ける)をするように」と教えていました。所が不当な理由で投獄され、死を待つ日々の中で、イエスさまが本当に救主、キリストなのか確かめたくなり、使いをやって、イエスさまに直接尋ねました。するとイエスさまは「多くの人が神さまの愛に触れて癒されていること、罪ある人が福音を聴いて救われている」ことを、実例をもって教え、使いを再びヨハネのもとに送り返しました。そして取り囲んでいる人々にヨハネのことを人類史上最も偉大な者と高い評価を下しながら「それでも天国で一番小さな者も、ヨハネよりも偉大である」と言われました。これはどう言う意味でしょうか。私たちの周りにもごく少数ですが、徳の高い人を見かけることがあります。「ああ、この人こそ天国に一番近い人だ」と憧れとも尊敬とも、いや畏敬の念すら抱くものです。しかしそのような人でも、天国の門が彼の前に広く開かれているのに、仮に入ろうとしないならば、ああ何というもったいないことでしょうか。教会の門が広く開かれているのに、そしてそこで毎週礼拝がささげられているのに、それに与ろうとしないで、この世の秩序や価値観にこだわっているとしたら、全く惜しむべき事と言う外ありません。

 多くの罪人が伝えられた福音に目覚めて罪を悔い改め、求道を始めて天国へと殺到している時に、あなたはこの神さまから差し伸べられた恵みの手を断らないで下さい。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                                2000年7月30日

「耳ある者は聴け」

マタイ11:2-15

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 人の一生はその多くの時間、苦悶に満ちた経験を通されることでしょう。問題はその苦しみや呻きを災難ととるか、神の試練ととるかです。「耳ある者は聴け」と主は言われました。聴く耳をもって神さまに聴きましょう。

 

一、イエスを求めて

 このヨハネはイエス・キリストの使徒とされたヨハネではなく、人々に悔い改めのバプテスマを施していた「バプテスマのヨハネ」という人です。14章を読むと彼が何故牢に繋がれたのか、その詳しい経緯が分かります。彼は明日をも知れぬ死刑囚の身で、弟子を介してイエスに「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせました。「あなたが本当にメシア、キリストなのですか」という意味です。

 旧約聖書の時代からこの来るべきメシアについて、モーセは「わたしのような預言者」(申命記18:15)、ダビデは「主の御名によって来る方」(詩編118:26)、またダニエルは「人の子のような者」(ダニエル書7:13)と表現こそ違いますが、神が遣わすと約束されているメシア、キリストを預言しています。

 生きてこの牢から出られまいと覚悟したヨハネは、自分の人生を振り返ります。これまでしてきたこと、語ってきたこと、つまり命を懸けてしてきた仕事は無駄ではなかったという確証が欲しいのです。彼は来るべきキリストを預言しました。間もなく来られるはずのキリストを迎える心の準備をせよと、人々に語りました。数年前イエスご自身ヨルダン川でバプテスマを施していた自分の所に来て「わたしもバプテスマを受けたい」と申し出られました。ヨハネは聖霊に導かれて「この方こそ来るべきメシアだ」と人々に告げたことがあります。それなのに死の間際にあって確信がぐらついたのでしょうか。

 私たちにも同じような経験があったように思えます。打ち続く試練の厳しさ、激しさに、自分の信じている方は本当に救主なのか、この方を信じて間違いないのだろうかと言う疑いがふと頭の隅をよぎることはないでしょうか。信仰のぐらつきを感じないでしょうか。そのような時「間違いないよ」という一言を求めることは不信仰なのでしょうか。仮にバプテスマのヨハネの質問がこのような弱音を含んだものであったとしても、一体誰に彼を責める資格があるというのでしょうか。

 

二、ヨハネに伝えよ

 主イエス・キリストはこのようなヨハネの問いかけに直接「そうだ」とも「違う」とも答えません。淡々とご自分の御業の事実を示して、使者を再び質問者であるヨハネのもとに送り返しました。ナザレのイエスが確かにメシアであり、キリストであることを百の理論をもって聞かせるのでなく、日常的な真理の事実を示してヨハネだけでなく、使者の心に疑いの雲間から信仰の朝日を覗かせ、不安から平安へ、悲しみから喜びへ、絶望の淵から永遠の希望を持つ者と変えて下さったのです。更に主イエスはもう一つ素晴らしい奇跡を起こして下さいました。ヨハネの質問のメッセンジャーは、今イエスの福音のメッセンジャーとされたのですから。聞く耳をもって御言に聴きましょう。

 青年時代、私たちは数人の信仰の仲間と病院へ訪問伝道に参りました。昔は三浦綾子さんの夫光世さんのように、全国的に青年達は礼拝後開拓伝道中の集会所に出かけて行ったり、時には結核や長い療養生活をしている人の病床に出かけて行ったものです。私たちは信仰の先輩から頼まれて、生まれながらに股関節脱臼に悩まされて療養生活中の一姉妹の許に遣わされました。訪問伝道とは言っても若い私達は三浦光世さんのように、気の利いたことが言える訳ではありません。讃美歌を歌い、聖書を読んでお祈りをささげるのがやっとでした。数日そんなことを繰り返している内に、背を向けていた彼女が漸くこちらに顔だけは向けてくれるようになりましたが、反応は相変わらず冷ややかなものでした。無理もないと思います。同じ年頃の私たちは自由に歩き回れるのに、彼女は終日ベッドに縛り付けられる生活なのですから。 私たちは相も変わらず不器用に讃美歌を歌い、聖書を読み、お祈りをささげることしかできません。でもある日、帰り際に思い切って「聖書を置いておきますので、もし読む気があったら読んで下さい」と新約聖書を置いて帰りました。それから次の日訪問するまでの1週間の間に、私たちが出来ないことを神さまはして下さいました。その日も聖書を読み讃美歌を歌い、お祈りをささげると、彼女の口から初めて「アーメン」という言葉が聞こえました。そして言いました。「聖書を有り難う。1週間の間に全部読みました。繰り返し読みました。私はイエスさまを救主と信じます。いつか私も教会に行きたいです」と信仰の告白をしたのです。それから約十年後、私が献身して入学した関西聖書神学校に、彼女は既に私の2年先輩として在籍していたのです。まさに後なる者は先になりの御言の通り、神の御業を拝させていただきました。「足の不自由な人は歩き、貧しい人は福音を告げ知らされている」のでした。

 

三、旧約聖書から新約聖書へ

 ヨハネが使者からのメッセ−ジを聞いてその後どうしたのか私たちには分かりません。一心に神を仰ぎ見るヨハネにはこのメッセ−ジで十分だったのでしょう。むしろ著者の関心はなおそこに立ち続けて人々に語るイエスの教えにあります。イエスは「女から生まれた者のうち、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった」と、ヨハネを非常に高く評価なさいました。預言者はいつの時代にも尊敬されています。しかしヨハネはそれ以上の者だと言うのです。人間として最大級の評価です。詩編84:11に「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います」と歌われています。私たちの周りにもごく少数ですが、立派な人や偉大な人、更には高潔な人を見ることが出来ます。そう言う人こそ天国に一番近い人だと考えてしまいます。天国に一番近い人なら当然もう一歩足を踏み込めばよいのですから、確実にそこに入ることが出来ると思うのは人間の評価です。ヨハネが人間として如何に立派であっても主は「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われます。ヨハネとイエスの違いは律法と福音の違いです。ここの所を関田寛雄先生は「律法の義において最大の者も、信仰による恩寵の義に生きる最小の者に及ばない」と読んでいます。

 私たちは私たちの周りに見る徳の高い人や高潔な人の前では自分がクリスチャンであると証しするのを憚られます。小さくなってしまいます。穴があったら入りたいと考えて、クリスチャンであるとは遂に言えないで、逃げるようにそこを離れてしまう者です。しかし、そんな時こそイエスが言われた言葉を思い出さなければなりません。確かに彼らは立派で尊敬に値するし、実際尊敬します。私たちも彼らの清潔な生き方に学び、その人達の爪の垢を煎じて呑むくらいの謙虚さが必要です。しかし彼らがこの世でどれほど偉大な人であっても、天国の門がその人のために広く開かれているにもかかわらず、仮に入ろうとしないならば、ああ、何ともったいないことでしょうか。教会の門が終日開かれているのに、そしてそこで毎週礼拝がささげられているのに、入ろうとしないで、この世の秩序や価値観や善悪の基準にこだわっているとしたら、全く惜しむべき事です。失敗だらけの信仰生活の中で礼拝と主の晩餐式毎に悔い改めを重ねながら、辛うじてイエス・キリストの恩寵に与っている最も小さなクリスチャンの方が遙かに幸いなのです。

ヨハネが送った弟子を通して、イエスが世に送ったメッセ−ジの意味は実にこれです。イエスは言われます。「ヨハネよ、あなたによって刺激を受けて悔い改めに導かれた人々が、今激しい勢いで求道者として天国を慕い求めている。それなのに悔い改めを迫ったあなた自身が、その人々よりも後れをとってなるものか」と。

 愛する兄弟姉妹、あなたがたの中には今なお「私はこの世で犯罪に手を染めたわけではない。だから私は罪人ではない」とがんばっている人がいるかも知れなません。しかし人の前に罪なしと言えるあなたも、果たして神の前に胸を張って言えるでしょうか。この世の基準や価値観が聖書に照らして、神の御前に絶対に正しいと言い切れるでしょうか。天国に一番近いかも知れないあなたが後一歩と言うところでもれてしまうことがあってはなりません。どうか今イエス・キリストの福音、あなたのために十字架に罪を贖いとって下さったその恩寵に生きる者となって下さい。今日語られた主イエス・キリストの救いのお言葉を聞く耳をもって聴きましょう。あなたの上に主の祝福がありますように。

 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。

 この世にバプテスマのヨハネにまさる者はないとあなたは言われます。しかしその彼でさえ十字架の主、恩寵の主イエス・キリストの福音に出会って初めて救われるのだと学びました。ましてやヨハネに遙かに及ばない私たちは天国にはいることなど絶対に不可能です。しかしあなたは独り子イエス・キリストの十字架の贖いを通してその不可能を可能に変えて下さいました。神さま感謝します。あなたの計り知れない恵みの故にあなたをほめたたえます。栄光がとこしえに主なるあなたにありますように。

主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

 


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