2000年10月8日
主日礼拝メッセージ
休ませてあげよう

マタイ 11:25〜30

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】   

 伊沢記念男と言う牧師の話をします。健在であれば、今年92歳になっておられることでしょう。師は生後間もなく大病を患い、その後遺症で肢体不自由と言語障害の身となりました。母はこの子に生きる支えを求めて色々な所に行っては相談しました。しかしかえってくる言葉は「先祖の因縁がこの子に報いた、諦めなさい」です。絶望した彼はついに鉄道自殺を図りました。不自由な体を引きずってようやく線路を枕に身を横たえ、列車の来るのを待っていました。ところが聞こえてきたのは警笛ではなく、歌声と楽器の音です。あるキリスト教会が伝道集会の案内をしていたのです。その中の一人が彼を発見して、担ぎ降ろしてくれました。そのまま教会へ連れて行かれ、生まれて初めて聖書の話を聞くことになりました。生まれつき目の見えない男の話です。

 イエスの弟子たちは盲人を一目見るなり「あの人は誰の罪の為にああなったのですか」とイエスに尋ねました。その時イエスは「誰の罪のためでもない。神の業がこの人の上にあらわれるためである」(ヨハネ9:3)とお答えになりました。彼にとってこれは驚きでした。どこに行っても、誰にあっても因果応報だとか、先祖のたたりだと言われてきた彼が生まれて初めて聴いた聖書の中に、自分の身の上は神の業のあらわれるためであると言うのです。キリストは障害を負う者にあきらめよとは言わず、あるがままの身と心をもって神の計画に希望を持てと言って下さったのです。その瞬間彼の心に張り付いていた鉛のような重荷がすっかり下ろされ、その場でイエス・キリストを信じ、生涯神に仕える決心をしたというのです。

 


 【本文】主日礼拝メッセージ】                  2000年10月8日

休ませてあげよう

 

 私たちはどんな時に心の平安と喜びが得られるのでしょうか。全てが順調に進んでいるのに何かもっと大切な忘れ物をしているように心が晴れないことがあります。かと思えば事態はそれほど好転しているようには見えないのに、言い知れない安堵と喜びの感情が湧き出てくる不思議な経験をすることがあります。主イエスはまさにその後者の霊的体験へと私たちを招くために、この有名なお話を残して下さいました。

 

一、 祈りの中に見出す平安(25〜27節)

 悔い改めない町を嘆くその同じ口で、どうして突然喜びの祈りが捧げられるのか不思議ですこの間に何があったのでしょうか。並行記事であるルカ10:17〜20を見るとその謎が解けます。先に遣わされた弟子たち72人が伝道旅行から帰ってきて、多くの人がイエス・キリストを信じ受け入れた喜びの報告をしました。イエスはその報告を受けたので、神に感謝の祈りを捧げられたというわけです。「知恵ある者や賢い者」とは、宗教的指導者のことでしょう。彼らはその高慢さの故に神の真理が見えない者とされています。それとは対称的に「幼子のような者」とは名も無き一般の人々、いやもっと蔑まれた立場におかれている人には神の真理が明らかにされ、それによって彼らは罪を悔い改め、イエス・キリストを救主と信じ受け入れ、神に立ち帰ったというのです。これがイエスの喜びです。 

 イエス・キリストというお方は心押しつぶされる99の困難な状況にあっても、たった1つの喜びを見出したとき、99の苦しみは彼の脳裏から消えて、100%の喜びに変わり、天の父なる神に感謝の祈りを捧げることがおできになるのです。魂の平安は目に見える状況の変化によらず、神が共におられるという確信の中で得られるものであることを教えて下さいます。こういう詩があります。

 「私が喜びを全く失って、寄る辺なくわびしく、疲れ果ててさまよっていた間中、実は、私は神の聖地であるこの地上を歩いていたのだ」

 神が常にここにおられるという事実を思い起こすことの中で、このつらい現実社会も、神の支配の中にある神の聖地そのものであるとこの詩人は歌います。これが祈りです。

 

二、 休ませてあげよう(28〜30節)

主イエスはご自身に従う全ての者に休息を与えると約束して下さいました。この世に生きる限り肉体的にも精神的にも負うべき荷は多く、また重いのです。人間にとって一番苦痛なのは、何故この荷を負わなければならないのか、その意味と目的が見えてこない時です。 

 私がまだ神学生であった頃、実習のために派遣されていた教会に、伊沢記念男という牧師が特別伝道集会の講師としておいでになりました。正直言って最初の頃は言葉が聞き取れないで苦労しました。それと言うのも先生は幼い頃に大病を患い、その後遺症で肢体不自由と言語障害という身となっておられたのです。心痛めた母親は何とか生きる支えはないものかと色々な人の所へ相談に行きましたが「先祖の因縁だから諦めなさい」と言う言葉しかかえってきません。記念男少年は生きる希望を見失い、死を覚悟しました。鉄道自殺を図り、苦労してようやく線路の所まで行き、線路を枕に列車の通過を待っていました。暫くして警笛の代わりに楽器の音と歌声が近づいてきます。あるキリスト教会の一団が伝道集会の案内に回っていたのです。彼らは伊沢少年を見つけるとすぐに線路から抱き上げて安全な場所まで運んでくれました。行く宛てもない少年はそのまま教会まで連れて行ったもらい、そのまま集会に出ました。

 その日、彼が生まれて初めて聞いた聖書の話はヨハネ9:1以下の、生まれつき目の見えない男の物語です。弟子達は生まれつき目の見えない人を見つけるとイエスに尋ねました。「あの人が生まれつき目が見えないのは誰の罪のためですか。両親ですか。本人ですか」と。するとイエスは答えて言われました。「あの人が生まれつき目が見えないのは、誰の罪のためでもない。神の御業が彼の上に現れるためである」と。これを聞いた伊沢少年は驚きました。今までどこへ行っても、誰に聞いても「先祖の因縁だ」と言われ続けてきたのに、イエスはこの障害を持つ私の上にも神の御業が現れるのだと言われたのです。自分は生きる資格も値打ちもないと思っていたのに、イエスは「お前は生きていなければならない。何故ならお前の人生に神さまは計画を持っておられるのだから」と正反対のことを言われたのです。この瞬間彼の中に電気が走ったように感じました。これまで重くのしかかっていた様々な人生の重荷が嘘のように取り払われたのを感じました。彼はその晩イエスを救主と信じました。そして自分の障害を神さまに献げますと決心しました。それ以来50年間伝道者としてキリストに仕え通してこられたのです。

 

 愛する皆さん。あなたはあなたの人生にのしかかっている重荷に今あえいでいらっしゃるかも知れません。誰に聞いても、どこへ行っても因果応報の結果だとしか言ってくれないかも知れません。しかし今日、あなたはイエスの御前に導かれました。そして主イエスの御言を聴かれました。「あなたの身の上にも神さまのご計画が用意されている。死んではならない。翻って生きなさい。わたしがあなたに新しい命を与えよう」と。どうか今この主イエス・キリストにあなたの人生を委ねて下さい。そして従って下さい。

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。あなたの御言を感謝します。私たちも伊沢少年と同じように、人知れず自分の生い立ちや身の上に起こったことで悩み苦しんで参りました。大きすぎる重荷、重すぎる荷が背中に食い込んで生きる勇気さえ失いかけていました。

 こんな私たちに今あなたは「わたしの下に来なさい。そうすれば魂に休みを与えて上げよう」と言って下さいました。感謝します。お言葉どおり今あなたの御許に参ります。あなたを生涯の主と信じ従います。私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む