2000年10月15日
主日礼拝メッセージ
神が求めるもの

マタイ12:1-8

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】   

 今日ほとんごのキリスト教会では日曜日を安息日として守っています。そこで今朝は安息日の意味を学ぶことにします。ファリサイ派の人々はイエスの弟子たちが麦の穂を積んで、もみしだき、殻を選り分けて口に入れた一連の行為を「仕事」と捉えて、これを安息日規定を破る罪と非難しました。確かに旧約聖書には「安息日は何の業もしてはならない」と戒められています。しかしイエスは「弟子たちは自分の欲得の為に麦を積んで食べたのではない」と弁護しました。実際弟子たちはこれまで奉仕に忙しく、、食事をする時間もなかったのでしょう。それで空腹を紛らすために麦の穂を折って食べたものと思われます。人は外面の言動で非難したり裁いたりしてしまうことがあります。安息日という聖なる日にも人は安息日規定の奴隷となって、他を審くと言う罪を犯してしまうのです。

 

 安息日は全ての人が安息日の主である神の御前に謙るべき日です。安息日の主は人の子(イエス・キリスト)であることを忘れてはなりません。キリスト教会は聖なる安息日を日曜日と定め、この日を「主の日」と呼んでいます。この日は仕事や勉強から解放されて、天地の主を礼拝し、身も心も魂も安息を得る日です。一週間の業に必要な聖霊の力、人間関係を豊にする神の知恵はこの日、イエス・キリストの下にあってこそ得られるのです。

  


【本 文】主日礼拝メッセージ】                  2000年10月15日

神が求めるもの

 

 今朝は安息日とはどういう日かを学ぶに相応しい聖書テキストです。もう一つ言うなら安息日は誰のものかと言う学びでもあります。

 

一、ファリサイ派の聖書解釈(1〜2節)

 ファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の一派がありました。彼らは一般のユダヤ人がどのようにすれば律法、即ち旧約聖書を読みこなし、神に従順でいられるか、手取り足取りして教える指導者です。律法には「安息日を聖とせよ、この日は何の業もしてはならない」と定められています。ファリサイ派の人々はこれを日常生活にあてはめて、細かい規定を定めました。安息日であっても人はお腹が空くのですから、食べることは許されます。しかしその為の準備は人間の利益のための業、仕事になるので、安息日のための食事は前の日に準備しておきなさいという決まりを作りました。所がたまたま麦畑でイエスの弟子たちと出会った時、その弟子たちの行為が律法違反に当たると非難しました。弟子たちが麦の穂を積んで食べたことです。

 聖書は「農作物を隅々まで刈り尽くしてはならない」と戒めています。通りがかりの旅人や貧しい人、空腹の人のために残しておくようにと言うのがその理由です。ファリサイ派の人々は他人の麦畑からつまみ食いしたということで怒っているわけではないのです。問題は麦の穂を積んでから食べるまでの一連の行為です。ユダヤ教の律法解釈によると、これは安息日規定に違反することでした。穂を積むこと、これは刈り取り作業です。穂を揉むこと、これは脱穀作業です。籾がらを取り除くこと、これは選別作業です。更にこれら一連の行為が食事の準備と言う仕事になる。だから弟子たちの行為は安息日規定に違反しているというのです。

 

二、聖書に聞く(3〜5節)

 これに対してイエスは反論します。ファリサイ派の人々は聖書に基づいて弟子たちを非難したつもりですが、イエスから見れば、それは聖書を土台としたものではなく、彼ら流の聖書解釈に基づいているに過ぎません。聖書に聞くよりも分かりやすい注解書に聞くことの危険な落とし穴です。イエスは弟子たちの行為が決して聖書に違反したものでないことを明らかにするために、その昔ダビデの出来事を引き合いに出します。出来事の内容については既にイエスご自身の口から説明がなされていますが、これが聖書のどこに書かれているのか気になる人のために申し上げますと、サムエル記上21:1〜6(p.463、口語訳ならp.415)を参照して下さい。イエスはここでファリサイ派の誤解を二つの点で指摘しておられます。

 

 先ず第一の点は、安息日は戦々恐々としながら過ごすのではなく、身も心も魂も安らぐ日です。神は6日間で天と地とその中に住む一切のものを創造し、7日目にお休みになりました。神はその日、6日の間にお造りになった全てのものを見て満足し、喜ばれたのです。だから人間も6日の間、出来得る限り悔いのないよう一生懸命働き、また学び、与えられた安息日を喜びと満足の内にリラックスしたいものです。人間ですから少しは失敗もあったかも知れません。或いは悔いのみ多き6日間であったかも知れません。しかしそれさえも神の御前に悔い改めて告白するなら、心の罪という重荷から解き放たれて自由を得る安息日とされるのです。罪は神が取り扱われます。第三者がとやかく言うことではないのです。

 

 反論の第二は「働く」と言うことの意味です。ここで安息日をどう過ごすべきかを戒めている聖書そのものを読んでみましょう。出エジプト記20:8〜11(p.126)がそれです。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」とあります。イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われました(ヨハネ5:17)。7日目に創造主が安息されたと言うのは働きをやめたという意味ではありません。例えば私たちは夜安眠をとります。しかし体内の脳や心臓や様々な臓器は一瞬たりとも働きをやめません。そうでないと私たちは次の朝目覚める前にこの世に別れを告げなければなりません。ましてや命の主である神が一瞬でも働きをやめたらどういうことになるでしょうか。若田さんたちを乗せたスペース・シヤトルは二度と地球に帰って来られなくなってしまうでしょう。いやこの地球そのものがたちまち破滅です。問題は6日の間になすべき仕事と7日目になすべき仕事の内容の違いです。6日間は自分のための仕事をして良いのですが、7日目にはただ神の栄光のために働きなさいと言うことです。創造主が安息なさるとはどういうことでしょうか。イエスは旧約聖書を引用して「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア書6:6)とお教えになります。

 

 どれほど形式的に文句の付けようのない礼拝プログラムであっても、その礼拝に多大な犠牲を払って出席しても、お互いの間に愛と赦し、喜びと感謝のない礼拝は神にとって少しも安息になりません。神の喜びとはなりません。イエスの弟子たちはこれまで食事をする時間もなく奉仕に忙しかったのでしょう。だからたまたま麦畑を通ったのを幸い、麦の穂を積んで食べましたが、それは自分の都合によるものではありません。これらは全て主の業に仕えるためのものでした。私たちの安息日の過ごし方はどうでしょうか。私たちの礼拝はどうでしょうか。他山の石としたいものです。

 

三、神の喜びとなる安息日

 今から26年ほど前カール・リヒター率いるミュンヘン合唱管弦楽団の一行140名が日本公演を開催しました。バッハの曲を専門に演奏することで世界的に有名な楽団です。メンバーは皆素人ばかりで、楽団からの俸給も謝礼も一切受け取っていないとのことです。楽団の指揮者カール・リヒターは牧師の息子と言うことだからでしょうか、入団希望者にはたった一つの条件を付けた以外は、経験や技術、音楽知識など何の資格も問わないのが特徴です。ではたった一つの条件とは何かというと「生活に必要な時間以外、全ての時間をバッハに捧げられる人」です。これさえ守るなら誰でも歓迎なのです。ここにこの楽団の魅力と迫力の源があると言えます。メンバー全員のこうした姿勢が、その全作品を「神の栄光のために」と記したバッハの精神と一致するものがあるのです。

 「人の子は安息日の主である」とイエスは言われます。ユダヤ教では今も7日目の土曜日を安息日として守っています。しかし殆どのキリスト教会では週の初めの日曜日を安息日として守ります。それはイエス・キリストが十字架に死んで三日目の日曜日に復活されたからです。そしてこの日を聖なる安息日、つまり「聖日」、或いは復活の主イエス・キリストを記念する「主の日」と呼んでいます。

 日曜日は人間の為の「寝て曜日」ではなく、復活の主イエス・キリストを記念する日です。バッハがその全ての作品に「神の栄光のため」と記したように、クリスチャンもまた「私の生活の全てが神の栄光の為に」と言う祈りを込めて主の日、イエス・キリストの父なる神に礼拝をささげることから一週間を始めたいものです。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を心からあがめます。「我が父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われた主イエスの御言に感謝します。安息日は全世界のために日夜休むことなく働いて下さるあなたの慈愛に感謝をささげる日です。そしてあなたの慈愛をもっと多くの人にお伝えするようにと散らされて行く一週間の始まりの日です。

 来週はいよいよ待ち望んだ特別伝道礼拝です。もっと多くの人が身にも心にも魂にも休みを与えて下さる方を知ることが出来るように、お伝えする者として私たちをここからお遣わし下さい。 私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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