2000年12月3日
待降節第二主日・礼拝メッセージ
神からいただく恵み

ルカ1:26-38

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

マリアとは「苦い」とか「つらい」と言う意味です。彼女の人生はその名の通り波瀾万丈、実に辛く苦しい日々であったことが分かります。しあし彼女はそれにもかかわらず耐え抜きました。その秘訣は何でしょう。それは次の3つの点で「神から恵みを頂いた」からです。

 

一、神のプログラムに期待私たちは礼拝で恵まれたと思っても、教会の外に出ると考えられないほど厳しい現実に苦しみます。しかし神の御言はそこでも有効です。人生のプロセスに右往左往しないで、約束のご計画に信頼して堅く立ちましょう

 

二、全能の神に期待「神に出来ないことは何一つない」と御使ガブリエルは言います。この言葉は真実です。問題は私たちの信仰の限界が全能の神の可能性を否定してしまうことです。「全能の神よ」と祈りながら、現実の壁の前に「やはり駄目かも」と疑いが芽生えることがあります。神は全能であるという信仰が生活の支柱でなければなりません。

 

三、神を主とする マリアは神への無条件降伏を宣言しました(38節)。神に敗北することはサタンに敗北するよりも幸福です。なぜなら私たちの心を神に明け渡すことはその後の人生をこの神に導かれることを意味するからです。悪魔に敗北することは、人生そのものを破壊されてしまいます。私たちは神に頼り、神に従う謙遜、従順な心を持ちましょう。

 


【本 文】待降節第一主日・礼拝メッセージ】                  2000年12月3日
 
神からいただく恵み

 

 旧約聖書にルツ記という書物があります。その中にナオミと言う女性が登場しますが、何十年ぶりかで故郷に帰ってきた彼女を昔の女友達は「ナオミさん」「ナオミさん」と懐かしがってくれるのですが、彼女は「私はもう昔のナオミではないの。ナオミという名前は『快活』という意味があるけれども、今の私はそんな気になれないの。いっそのことマリアと呼んで。私の人生はこれでもか、これでもかと言うほど辛く、苦しい毎日だったのですから」と言うくだりがあります。

 マリアとはそう言う意味の名前なのです。所で今読んでいただいたルカによる福音書で、救い主の母として選ばれたマリアもその名に相応しい辛く、苦しい茨の人生をこれから歩むことになるのです。しかし神から遣わされた御使ガブリエルは彼女を「恵まれた方」とか「あなたは神から恵みをいただいた」と讃辞を送っています。いったい神が下さる恵みとはどのようなものなのでしょうか。いや恵みを恵みとして受けとめることが出来る、その秘訣は一体何なのでしょうか。第一に、神から出たことはそのプロセスよりもその結果において意味があると信じることであります。

 

 「恵まれた女よおめでとう」というようなメッセ−ジをあなたも日曜日の礼拝毎に講壇から聴きます。しかし、一歩教会から足を踏み出した途端、この世はそのような祝福も、約束もまるで無縁の世界に見えることがあります。そのようなとき、あなたは神のメッセ−ジに期待している自分が一層惨めに見えることでしょう。

 マリアもそうでした。静かで平和な家の中で御使との交わりは実に清らかなものでした。しかし、現実社会は彼女を人でなし呼ばわりすることでしょう。結婚前に妊娠するとは何と道に外れた女かと宗教裁判にかけられるかも知れません。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」などと威勢の良い啖呵を切ったことを後悔させられる結果にもなりかねません。しかし彼女は十月十日という厳しい現実のプロセスに身を置きながら、その向こう側に用意されている神のプログラムに期待したのです。私たちもこの礼拝で「あなたは神から恵みをいただいた」と約束を受けたのであれば、神の約束に身を委ねきろうではありませんか。確かに厳しい現実社会のプロセスに身を置くことは針のむしろかも知れません。だからこそその向こう側に用意されている神のプログラムがどのようなものであるかを期待しなければならないのです。

 

 恵みを受けとめることが出来る秘訣の第二は「神には出来ないことは何一つない」と言う御使のメッセ−ジを受け入れることであります。

マリアにとってこの約束に立ち続けることはとても困難であったと思われます。マタイ1:18〜19(p.1)をごらん下さい。最愛の婚約者であるヨセフでさえ、自分から離れて行こうとしています。御使ガブリエルが自分の所に来たばかりに、幸せがするっと自分の手からすべり落ちようとしているのです。神はどうしてこんなひどい仕打ちをなさるのかと恨めしい限りです。マリアの置かれた状況であれば、そう思っても不思議ではありません。しかしそのような八方塞がりの彼女を支えたものはやはり御使のメッセ−ジでした。「神にできないことは何一つない」と言うメッセ−ジが彼女を支えたのです。

 

 私たちの生活の中にこの支柱が立っているでしょうか。神にできないことは何一つないのです。しかし私たちの信仰の限界が全能の神の可能性を否定してしまうことが起こります。

 私が神学校に入ったばかりの頃、その神学校には家族寮というものがありませんでした。それで自分で探すことになりました。学校でも、奉仕先の教会でも皆心を一つにして私たち夫婦のために祈って下さいました。ある日曜日、教会の牧師先生は夕食前の感謝祈祷の中で「全能の神よ、あなたを信じます。どうぞこの兄弟のために、住まいを与えてやって下さい」と特別に祈って下さいました。そして楽しい食事が始まりました。色々楽しい話題が満載する中で、また私の住まいのことに話が及んだとき、牧師先生が溜息混じりに「家を見つけるのは無理かも知れないな」と仰ったので、私は「あれ、先程全能の神に祈って下さったのでは?」と大笑いになりました。このようなことは笑いですみますが、私たちは時として、もっと困難な問題に直面したとき「全能の神よ」と祈りながら、実際には「やはり駄目かも」と溜息をついてしまうことがあります。

 

「神にできないことは何一つない」と言う信仰の支柱を私たちの生活の真中に打ち立てましょう。恵みを受けとめることが出来る秘訣の第三は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という謙りです。

 マリアはまさにマリアの人生、苦渋の選択を迫られました。しかし全能の神の支えを確信できたとき、自分をその神の僕と告白して従う決心をしました。彼女のこれからの人生は彼女のものであって、彼女のものではないのです。立つも座るも、覚めるも眠るも、進むも止まるも、語るも黙るも神の御心のままです。彼女の24時間を支配するのは彼女の自我ではなく、神です。38節は彼女の神に対する無条件降伏の宣言です。しかしこれほど安全な決断、これほど自由な宣言はありません。なぜならこれはインマヌエル信仰の告白だからです。インマヌエルとは「神我らと共にいます」という意味です。神からの独立宣言は孤独の人生の選択です。人は言います。「自分さえしっかりしていれば、聖書も神も要らない」と。しかし、人間はそんなに強い生きものではありません。

 

 大阪で伝道していた頃、教会にアルコール依存症の人がいました。俗に言うアルコール中毒です。彼は何度もアルコールを断つと家族にも私にも約束をしてくれましたが、実際は敗北の連続でした。その都度夫人は泣きながら私に付き添いを頼んで病院に向かって車を走らせるのです。今度こそと言う言葉を聞きながら、車は病院を目指していましたが、道は混雑していて信号待ちを繰り返します。すると丁度あるビールメーカーのトラックが隣の車線に止まりました。彼はその車の横に描かれたジョッキーを眺めながら「飲みたいなあ」というのです。今度こそと言う決心は脆くも崩れて私たちを乗せた車の中は再びパニックです。

 このような問題は何も彼一人に限ったものではありません。自分という者が心の王座を占めている間は誰にでも起こり得るのです。自己中心の生き方から平和は生まれません。人はもっと謙虚でなければなりません。

 

 この世界を支配しようとしている者が二人います。神と悪魔です。神に頼る人は謙虚な人生、インマヌエルの人生、恵み豊かな人生を約束されています。しかし悪魔に頼る人生は常に孤独で不安です。その結果争いに明け暮れ、惨めな終わりを迎えなければなりません。

 マリアは言いました。「わたしは主のはしためです」と。私達も私達の人生をこの発言から始めようではありませんか。

 

祈りましょう。

天のお父さま、あなたのお名前を心から讃美します。「あなたは神から恵みをいただいた」と御使ガブリエルは神さまの素晴らしいメッセ−ジをもたらしてくれました。マリアはこの恵みを確かなものと信じ従いますと受け入れ、あなたのご計画に身を委ねました。あなたは彼女の信仰を良しとして、全ての人を救うとのあなたのご計画を実現して下さいました。あなたが彼女を救主の母として用いて下さいましたから、彼女の人生は茨のごときものであっても、孤独ではありませんでした。

 主よ、私たちも目先の損得で人生を考える者ではなく、プロセスで右往左往する者ではなく、神のご計画を静かに待ち望む者、あなたが全能のお方であると信じる者、生の全領域であなたを主と告白する者でありますように、私たちの救主イエスさまのお名前によってお導き下さい。アーメン。 


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