2000年12月10日
待降節第二主日・礼拝メッセージ
わたしの魂は主をあがめる

ルカ1:39〜56

          メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 人は皆幸福の青い鳥を探し求めて生きています。しかしそれぞれの価値観の違いから、幸福の青い鳥はなかなか見つかりません。これかと思ったら違っていたり、あれかと思ったら逃げられてしまいます。ここに登場するエリサベツとマリアの二人の女性は「幸福はあなたが本当に求めて手を伸ばせば与えられる」と教えています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」とエリサベツは言い(45節)、マリアも「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と応じています(48節)。ではエリサベツとマリアが手にした幸いとはどのようなものなのでしょうか。マリアの讃美歌から学びましょう。「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救主である神を喜びたたえます」と歌います。

 「あがめる」とか「たたえる」とは礼拝行為そのものを指して言います。その意味は「大きくする」、また「大いに喜ぶ」です。大いなる神の御前に自分が如何に小さな者、罪に汚れた者であるかを認めてそれを言い表すことです。そしてこんな小さな者さえも御心にかけて下さる方を喜ぶのです。ジョン・ニュートンの詩に「驚くばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れる我に。

 恵みは我が身の恐れを消し、任する心を起こさせたり」という数節があります。幸福な人生、それは大いなる神に覚えられていることを知って、この方の御前に平伏し、喜び、讃美することです。

待降節第二主日・礼拝メッセージ】                  2000年12月10日
 
わたしの魂は主をあがめる

 

 受胎告知を受けたマリヤは急いでエリサベトを訪ねました。彼らは親戚ですから、この訪問は別に不思議なことではありません。しかし二人のおかれた環境は対照的です。エリサベトは祭司ザカリヤの妻です。都市生活者であり、いくらか老齢です。これに対してマリアは地方に住む平凡な家の少女です。しかし彼らには最も重要な部分で共通するものがあります。それは救い主を証言する「預言者」と、救い主を出産する大いなる使命です。

 私たちは自分より若く、或いは劣っていると思う人が自分よりも重要な任務を与えられたりするのを見る時、寂しさと共に僅かであっても嫉妬心が湧いてくるものです。しかしエリサベトは年端の行かないマリアの産む子が、先に身籠もった自分のお腹の子よりも優れた者となると言うことに些かの嫉妬も感じないで、主の母上マリアを祝福し、お腹の中の子と共に喜び迎えました。この点で旧約聖書の中に、神への信仰を言い表していながら、わが子を愛する余り、嫉妬に燃えた母親たち、例えばサラとハガル、ラケルとレアの物語と著しい対象をなしています。エリサベトもマリアも自分たちの違いに目を向けないで、共通の使命に心を合わせることが出来ました。「あなたがたが召されたのは、一つの望みのためである」とエフェソ4:4に教えられている通りです。

 人は皆幸福の青い鳥を求めながら人生を生きています。しかしそれぞれの価値観の違いから、幸福の青い鳥はなかなか見つかりません。これかなと思ったら違っていたり、あれかなと思ったら逃げられます。しかしこの二人の女性は幸福とは手を伸ばせば誰にでも与えられますよと教えています。エリサベトは1:45で「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と言い、マリアは1:48で「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と歌っています。次にマリアの讃美歌から学びましょう。マリアは最初控えめに我が身の幸いを神に感謝して歌い出します。先ず47節です。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」

 ここで崇めるとは「大きくする」と言う意味で、たたえるとは「大いに喜ぶ」という意味です。47節をもっと短い言葉で言うと「わたしは無であり、あなたは全ての全てです」となります。私たちが礼拝を捧げることにはどんな意味があるのでしょうか。それは私たちが神の御前にとても小さな存在、いや無きに等しい者であるという事実を認めることです。これに対して私たちの神が如何に大いなるお方であるかを思い起こし、この方の御前に平伏す時なのです。

 この春仙川の駅で面白い光景を目にしました。面白いと言っては彼らに失礼なのですが、それは駅のホームに立っている青年たちの誰も彼もが紺系統のリクルートスタイルでした。一目で就職運動の会社訪問と分かりました。普段は自由奔放のヘヤースタイルと、服装の彼らがこの時ばかりはバシッと決めている姿に心の中で彼らに祝福があるようにと祈ったものです。そうです。普段は普段、しかしこれという時に、これと思う人の前に出る時にはそれなりの立ち居振る舞いが必要なのです。

 

 聖書には「聖なる装いをもって主を拝め」と戒められています。上等のものを身につけなさいと言われているのではありません。しかし主の御前に出るのに相応しい服装かどうかと問われている聖句なのです。皆さんはこの御言葉に相応しい服装で主の前に出ていると自分で思っていますか。服装一つにも無きに等しい者が大いなる主の御前に相応しいかが問われているのです。服装だけではありません。礼拝の姿勢はどうですか。高慢な心、また他人を裁く心を引きずってそこに座っているのではありませんか。人を赦していますか。自分を赦せていますか。つまり悔いし砕けた魂で主の御前にありますか。御言葉を御言葉として聴いていますか。47節の意味をしっかりと心に受け留めましょう。

 51〜53節にそれが見られます。この世にあって「権力ある者、富んでいる者はその地位から引きずり降ろされ、空しく去らせられてしまう」と言います。私たちはこのような御言葉を聞くと、インドネシアを初め、諸外国の独裁者とその取り巻きたちの不正を思い起こします。またかつて50数年前に日本が中国や朝鮮半島、また東南アジアの人々に対して冒した罪の数々を思い出します。確かにこのような罪を指している御言葉であり、その事の故に裁かれなければならないのは当然です。しかしこれは政治的、社会的、経済的に権力があり、富んでいる者たちのみを指しているのではありません。

 勿論この世で高い地位にある者、富んでいる者は得てして「思い上がる」事もあるでしょう。しかし中には実るほど頭を垂れる稲穂のように謙虚な人もいます。反対に地位もなく、富にも恵まれない悲運な星の下に生まれた人が、不平や不満で心がねじけたり、ひねくれてしまっている人もいます。

 

 ここはマタイ5:3の「心の貧しい人々は幸いである、天国はその人たちのものである」と言う御言を軸にして読まなければなりません。マリアの讃美歌は、神なしに一時も生きることが出来ないと謙る人と、神以外のものに心が奪われて高慢に振る舞っている人について歌われているのです。心の中が何によって一杯になっているかが問題です。神中心の生活を求める人は、我が身の幸福を実感できる人です。そう言う人は得られれば感謝し、得られなくても明日に希望を繋ぐ事が出来る人です。明日まだ何が起こるか分からないのに、その明日のことに対してさえ感謝を先取りできる人です。

 

「わたしは神に生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです」(ガラテヤ2:19〜20)

 あなたがもし今日、神の御前に謙って、全ての全てである神をあがめるなら、神はあなたの内にも神の御子イエス・キリストを宿らせて下さいます。あなたの罪も汚れも、高慢も一切はイエス・キリストと共に十字架につけられて死に、復活のイエス・キリストと共に永遠の命に与る「幸いな人」と呼ばれることでしょう。 

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。今朝、私たちはあなたの御前にどのような服装と姿勢と心で立つべきかを教えて頂きました。私たちは自分の高慢を棚に上げて、人の罪を責めるばかりでした。私たちは自分自身きっちりと悔い改めることをしないで、人にばかり悔い改めを求めていました。エリサベトとマリアがそれぞれの違いに目を留めないで、あなたから受けた使命の重要さに心を一つにしたのとは対照的に、私たちは自分の立場ばかりを気にしては思い上がったり、妬んだりの日々であったことを思い出しました。

 主よ、私たちは今こそ先ず自分の罪の全てを悔い改めます。どうかお赦し下さい。主の祈りの通り、私たちに罪ある者を赦す心をから礼拝を始めることが出来ますように。このような心こそ救い主をお迎えする最も尊い備え、クリスマス・アドベントの日々であるとお示し下さったあなたのメッセ−ジに心から感謝して、私たちの救主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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