2000年12月17日
待降節第三主日・礼拝メッセージ
「愛のプレゼント」

ヨハネの第一の手紙4:9〜10

       メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 新約聖書にザアカイの物語があります。彼は「同胞の生き血を吸って生きている吸血鬼のような男」と、みんなの嫌われ者でした。そんなある日、彼の住むエリコの町にイエスさまが訪ねてこられるというので、彼も好奇心に駆られて見物にやってきました。所がイエスさまは彼に「今夜あなたの家に泊まることにしている」と声を掛けて下さいました。本人は元より皆も驚きました。「神さまはえこひいきなさる。貧しいながらも全うに生きている私たちの所でなく、あんな罪深い男の家に行くとは」と呟きました。しかしザアカイはそんな声を耳にしながら、イエスさまを主(神)と呼び、これまでの罪を悔い改めると共に、可能な限り罪の償いをしますと告白しました。人間の心を造り変えるのは憎しみではなく、愛です。

 クリスマスはイエスさまのお生まれを祝う日です。友の誕生日には祝福に駆けつけます。また愛の贈り物を考えます。しかしクリスマスはあなたが神さまに贈り物をするのではなく、神さまからの愛の贈り物を感謝して受ける日です。神さまからの愛のプレゼントとは何でしょう。イエスさまです。神さまの愛のプレゼントであるイエスさまによってこそ私たちの心も造り変えられて、この世の人々と神さまの愛を分かち合って生きることが出来るのです。この事を喜び祝う、それがクリスマスです。さあ、みんなで一緒にイエスさまのお生まれを心から感謝してお祝いしましょう。

【本文】【待降節第三主日・礼拝メッセージ】                  2000年12月17日
 
 「愛のプレゼント」

 神の子イエスが肉体をもってこの世に生まれて下さらなかったら、私たちの人生にどんな意味があるでしょうか。オギャアと生まれて、辛い人生を真面目に生き抜き、そしてどこへともなく消えて行くだけであるなら、道徳も宗教も一切は空しいではないですか。面白おかしく悪の限りを尽くし、世界を欲しいままに生きて死んで行く人の方がよほど賢い生き方と言えないでしょうか。でもそれは違います。新約聖書の中に「同胞の生き血を吸う吸血鬼のような男」と陰口を叩かれた嫌われ者ザアカイの物語があります。彼は実に孤独でした。このままではいけないと思いながらも、周囲の刺すような視線を感じると、益々意固地になってしまうのでした。そんなある日、彼の住むエリコの町にイエスが来られると聞き、彼は年甲斐もなく木に登りました。どんな方か一目見ればそれで満足と言う野次馬根性からでした。ところがが何とイエスの方から声を掛けて「今日お前の家に泊まることにしている」と言って下さいました。これまで散々ザアカイに苦しめられていた人たちは「神さまはなんてえこひいきをなさるのか。どうして貧乏でも全うに生きている私たちの所ではなく、よりにもよってあんな罪深い男の家に入って行くのだ」とぼやきました。それを耳にしながらザアカイはこれまでの全ての罪を告白して「主であるイエスさま、私のこれからの人生を貧しい人に仕える為に用います。またこれまでの悪を清算して、苦しめた人々に償います」と言いました。その時イエスは呟き続ける人々に「今日救いがこの家に来た。この人もあなた方と同じ神の契約の民に加わったのだから」と言われました。

 

 今学校でいじめが社会問題になっています。今と昔ではいじめの質が違っているかも知れませんが、私の子どもの頃にも弱い者いじめをする子どもがいました。これはと思う子には容赦なく鉄拳をふるうので、皆の嫌われ者でした。ある日、学年全体で「マッチ売りの少女」という映画を見に行きました。映画はクライマックスにさしかかります。売れないマッチの軸に一本また一本と火をつけ、その瞬間だけ幸福な世界を垣間見る少女は哀れ、降り続く雪の中で凍え死ぬという場面です。あちこちからすすり泣きが聞こえてきます。ふと例のいじめっ子の姿が視野に入りました。何と彼も泣いているのです。鬼の目にも涙という形容をこの時ほどぴったり感じたことはありません。「あいつが泣くなんて」と隣に座っている友達が声に出し「本当」と、私もつい同調してしまいました。その時です。あのいじめっ子がジロッとこちらを振り向きました。それからというもの、私も隣の友だちも、もう映画所ではなくなりました。「どうしよう。明日の仕返しが恐い!」と私と彼は手に手を取って震えが止まりません。いよいよ運命の明日が来ました。お腹が痛いと言って休もうか、いやそれではご飯抜きになる。熱があると言おうか、それもすぐにばれる。あれこれ考えましたが、休む口実が見つからないまま、とうとう学校へ行く時間になりました。余計なことを口走ったばかりに目の前は真っ暗です。処刑台に上る人もこうなのかと思うほど恐怖心で足はガタガタ、心臓は早鐘のようです。しかし教室に入って驚きました。私たちを待ちかまえているはずのいじめっ子は背中を丸くして小さくなって座っているのです。その日だけではありません。来る日も来る日も彼はおとなしいのです。もう誰も彼をいじめっ子と呼ばなくなりました。私たちはこの変化の意味が分かりません。しかし卒業して何回目かの同窓会の日、彼の口からその理由を聞くことが出来ました。彼はあの映画に感動したのです。クラスメートに目撃されたことは彼にとって小さな事でした。マッチ売りの少女にも似た自分の家庭環境、しかし自分はそのいらだちを外に向けて弱い者いじめで気を紛らしていた。所がこの少女は失ったものよりも、今あるものの中で、今あるものを用いて美しい夢を求めている。ああ何とふがいない男かと自分で自分に腹が立って泣いていたのだというのです。

 

 町中の嫌われ者ザアカイと元いじめっ子の友人の姿が重なります。彼らは周囲の冷たい視線や陰口では生き方を変えようとはしませんでしたが、イエスさまとの出会い、あの聖書を土台とした名作との出会いが彼らを大きく変える力となりました。人を変えるのは憎しみではなく、愛です。クリスマスは人の心にイエスさまの赦しという愛の灯をともしてくれるのです。

 

 もう一つ見落としてならない事があります。私たちは誰かが誕生日を迎えると、その人を祝福し、何をプレゼントしようかと考えます。クリスマスとはイエスさまのお生まれを祝う日です。しかし神さまはイエスさまのお誕生日であるクリスマスなのに、私たちにイエスさまを祝福することやプレゼントを要求したりはなさいません。むしろ、反対に「わたしの愛を受けよ」と神さまの側からプレゼントを用意して下さっているのです。10節を見て下さい。

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」ザアカイは「今まで苦しめた人々に自分で償います」と言いました。その心がけや良しであります。しかし私たちは多くの場合、償いたくても償いきれない罪があることに気が付きます。ではどうすれば良いのでしょうか。償うことが出来ないなら、神さまの裁きを待つしかないのでしょうか。いいえ、私たちの神さまはそう言う方ではありません。神さまは私たちに自分の力で罪の償いをしなさいと一言もいってはおられません。イエスさまのお生まれを祝うクリスマスは、人間同士の誕生祝いのように、祝う人が祝われる人に贈り物を用意して行かなくてもよいのです。いや私たち人間には、この夜クリスマス燭火礼拝で学ぶ博士達の贈り物以上の贈り物は出来ないのです。飼い葉桶に眠る幼子イエスさまが真の王であり、全能の神であり、唯一の救主であることを告白する信仰という献げ物以外にどんな贈り物も神は求めておられません。

 

 クリスマスは私たちが自分の罪に思いを馳せ、その罪の償いしろとして十字架のイエスさまをプレゼントして下さった神の大いなる愛を知る時なのです。この方によってこそ私たちの罪が赦され、救われ、私たちも神さまの子どもとされることの保証を得たことを喜び祝う日なのです。

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。今朝、私たちはクリスマスの意味と神さまの愛の豊かさを学びました。ザアカイといじめっ子の友人があなたの愛で罪に目覚め、その心が造り変えられたように、私たちの頑なな心も今あなたの愛で造り変えて下さい。あなたにはそれが出来ると信じます。私たちのイエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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