【クリスマス主日礼拝】                       2000.12.24

「さあ、ベツレヘムへ」

ルカ2:1〜21

メッセージ:高橋淑郎牧師

 クリスマスおめでとうございます。

 今年は紀元20世紀最後のクリスマス、ミレニアム・クリスマスと言われています。所で、この「紀元」という元号はキリストの元号であることをご存知でしょうか。紀元前とはキリストが降誕される以前の歴史、紀元後とは以後の歴史です。言い換えれば紀元前とはキリストが降誕されるまでのカウントダウンの歴史であり、紀元後はキリストの赦しと恵みの支配によってキリストの教会が増し加わる歴史と言うことができます。

 この歴史は実にイエス・キリストのご降誕の地、ユダヤのベツレヘムから始まりました。神の独り子がそこに受肉降誕されたからです。人の子イエスとしての第一歩を踏み出されたからです。さて、その「ベツレヘム」に最初に導かれたのは誰でしょう。聖書を少しでも読んだことのある人は大抵羊飼いだと言うでしょう。正解は彼らではなくヨセフとマリアです。その昔、ユダヤのナザレに住む乙女マリアに聖霊が臨み、彼女は神のお子を宿しました。産み月に入った頃のことです。ローマの皇帝から被支配民族の人口調査をせよとの勅令が出され、マリアも許嫁のヨセフに連れられて住民登録のためにベツレヘムへ行くことになりました。ヨセフは聖書によると大工でした。大工は大工でも当時宮大工という大手ゼネコンの下請けという立場からほど遠く、せいぜい農機具づくりか、その類の小さな仕事の注文に頼って細々と食いつないでいた最下層の人です。卑しめられた職業ではありませんでしたが、経済的に厳しい位置にあったと言うことです。

 そんなヨセフにとってベツレヘムまでの旅費を工面することは大変だったと思います。結婚資金にと僅かばかりの貯金も全部はたいたことでしょう。ナザレからベツレヘムまでは直線にして約120ほどの距離です。しかし実際には起伏の激しい曲がりくねった道がどこまでも続いています。いつ産まれてもおかしくない妊婦を労りながらの旅はヨセフにとって容易なことではなかったと思います。漸くベツレヘムに到着したときには既にどこの宿屋も満室で、彼らの泊まる余地はありません。困り果てていると、中には親切な人もいるもので、家畜小屋を提供してくれました。有り難い、これでマリアを雨露から守ってやれると、ほっとしたのも束の間、マリアに陣痛が始まりました。この時一体どれくらいの人がマリアのお産を助けたのでしょうか。産婆さんを呼べたのでしょうか。ヨセフの手で取り上げたのでしょうか。産湯を使わせるための水、その為の器、またたらいのようなもの、へその緒を着る火打ち石の手配など一体どうしたのでしょうか。これが神のお子を産むようにと選ばれたマリアが経験した出産の瞬間です。母マリアが生まれてきた子どものために準備できた物と言えば、たった一枚の布でした。赤ちゃんにはこの布に包まれて飼い葉桶の中に眠っています。

 次にベツレヘムに導かれたのは羊飼いです。町外れの草原に彼らは野宿しながら羊の群れの番をしていました。雇われの身分の羊飼いは当時収入が安定しないばかりか、社会的にも宗教的にもユダヤ共同体から閉め出されていた人々です。いわゆる被差別民でした(K.H.レングストルフ著「ルカによる福音書注解」2:8の注解参照)。しかし人々から捨てられ、忘れられていた彼らを見捨てず、お心にかけておられる方がおられました。神です。神は天使を送って彼らの心も体もこの世にない光で包んで下さいました。真っ暗な夜空が急に明るくなったのです。天使たちはベツレヘムの家畜小屋に男の子が生まれたこと、その方こそ主なるキリストであると言ったかと思うと、空中は益々賑やかになり、天の大軍勢が現れて天使たちと共に「いと高きところには神に栄光が、地の上には御心にかなう人々に平和があるように」と大合唱が始まりました。

 しかしその内に大軍勢も天使の姿も消え去り、辺りはまた元の深い闇に包まれました。しかし、羊飼いの心に与えられた暖かい光は消えてはいません。「さあ、私たちも行って告げられたその出来事を見てこようではないか」と言い交わし、腰を上げて出かけて行きました。あちこち訪ね歩き、遂に探し当てて、イエスさまにお目に掛かることが出来ました。彼らは幼子を見て喜びに満たされて、その方を拝みました。羊飼いは公権力の前に虫にも等しい存在でした。しかし神は彼らを一人の人間として認めて下さいました。等しく愛の対象として下さいました。彼らこそ最も先にクリスマスに招待すべき者として選んで下さいました。なぜなら彼らは天使のみ告げを受けたとき、尻込みしたり、疑ったりしないで素直にベツレヘムへと出かけて行ったのです。仮に彼らが「どうせ、私たちのような者が行っても相手にしてもらえないだろう。今見たことは全て夢幻に過ぎない」と一蹴してしまったら、イエスさまにお目に掛かることはなかったのです。

 劣等感と謙遜は違います。心から愛してくれる人が「あなたにはそれが出来る」と言われてもなお「いや、できないと思う」と自分の殻に閉じこもることは謙遜ではなく、劣等感なのです。そして劣等感は傲慢の裏返しと言うことが出来ます。「出来るかどうか分からないがやってみよう」と前向きになる人こそ謙遜なのです。「神に栄光を帰する」とは、神の御言葉にとにかく従ってみようとする従順な心です。その時、その人の心は神と共にあり、神にある平和を享受できるのです。「御心に適う人」なのです。

 最後に綾瀬小園キリスト教会の牧師、江原淳先生がその教会の週報に寄せられた一文をご紹介したいと思います。

「嬰児の微笑みに吸い込まれる。口から出す単調な二三の音に相槌を打ち、言葉として聞いている。幼子イエスを連れてエジプトに避難したヨセフと母マリアは、厳しい旅を嬰児の笑みに慰められ力づけられたことであろう。聖人・偉人の誕生時の容姿には超人的な伝説があるが、イエスについては聞かない。無心な笑みに適う者はない。嬰児の笑みは、嬰児イエスの笑みに似ているのだろう。だから素敵なのだろう。自分を捨て、イエスに似れば、あの魅力が備わるのだろう」

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。世の中の人は目に見える形での奇跡や変革を求めます。しかし、あなたは今日ヨセフと母マリア、そして羊飼いたちの姿を通して私たちに学ぶべき事の多くあることを伝えて下さいました。彼らはベツレヘムに導かれる前の生活をベツレヘムの後にも引きずっていました。彼らはその後も相変わらず虫にも等しい扱いをこの世で受けなければなりませんでした。しかし彼らが残した足跡には大いなる変化が見られます。彼らは最早以前の彼らではなく、イエス・キリストが共にいて下さっている故に、その後の生活は一見無力に見えても喜びと平安に満ちています。

 主よ、私たちをも今日ベツレヘムへとお導き下さい。そして無心に微笑む幼子イエスに出会わせて下さい。この厳しい世の中に勝ち抜いて行く力はそこにこそあるからです。私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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