2000年12月31日
年末感謝主日礼拝メッセージ
言葉による義と罪

マタイ12:33〜37

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

  昔から「口は災いの元」とか「物言えば唇寒し秋の風」等と言われているように、余計な一言を口にしたばかりに、その場の空気が一変し、人間関係をおかしくしてしまいます。それでいながら「ごめんなさい」の一言はなかなか口から出てきません。むしろ言い訳がましく「あれはほんの言葉の彩だよ」と開き直り、益々相手を傷つけてしまうのです。旧約聖書に「癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く」(箴言15:5)とある通りです。 イエスは「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の善し悪しは、その結ぶ実で分かる」と言われました。しかし木に善し悪しがあるのでしょうか。この世に悪い木は一本もありません。これは人間の心と言葉の関係を譬えたに過ぎないのです。言ってはならない一言は「綾」ではなく「棘」です。

 

このように人は口から出た言葉を問題にしますが、イエスは言葉の源である「心」を問題にしておられます。イエスは私たちに向かって「蝮の子」と言われました。蝮の子とは一体どう言う意味なのでしょうか。新約聖書に「この巨大な龍、年を経た蛇(人間の歴史が始まる以前から既に造られ、存在していました−創世記3:1)、悪魔とかサタンと呼ばれる者、全人類を惑わす者」(ヨハネの黙示録12:9)とあります。 このように人間は生まれながらに「蝮(ヘビ)」の子です。即ちサタンに惑わされ、支配されています。だから人は生まれながらに罪人なのです。

 

 私たちは言ってはならない一言を口に出したところから罪が始まるのではありません。生まれながらに心がサタンの支配の下にある罪人ですかから、当然の結果として言わずもがなのことを言ってしまうのです。木の実はその実によって知るのです。そんな私たちが人を癒す言葉を口にすることは出来るのでしょうか。出来ます。私たちがイエス・キリストを新しいご主人として私たちの心に受け入れる決心をしさえすれば、この方はサタンを追い出して、私たちを清めて下さいます。イエス・キリストこそ「真に命の言」そのものだからです。このご降誕節の良き時、神は汚れた心の私たちの中に命の言であるイエス・キリストを与えて下さいました。感謝! 


年末感謝主日礼拝メッセージ】                        2000年12月31日 

言葉による義と罪

 

 Y2K問題が叫ばれる中、恐る恐る2000年を迎えたのがまるで昨日の事のように思い出されるのに、今日はもうその最後の日です。時の過ぎ行く早さを実感します。2000年366日目の今日のために私たちに与えられた聖書は「言葉」の問題です。私たちはこの一年の間どれだけの人と出会い、この口をもってどれだけの人にどのような影響を与えてきたかと探られる思いです。み言葉に聴きましょう。昔から「口は災いの元」とか「物言えば唇寒し秋の風」等と言われていますが、主イエスは人間の口から出る言葉によるマイナス面を強調しておられます。確かに人間は言葉によって多くの失敗を冒す者です。余計な一言を口にしたばかりに、その場の空気を一変させてしまいます。余計な一言はすぐに口から出るのに「ご免なさい」の一言はなかなか出せないものです。反対に「あれはほんの言葉の綾(あや)だよ」と開き直って、益々相手の心の傷口を広げてしまうのです。

 

 イエスは「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」と言われます。所で木に善し悪しがあるのでしょうか。どの木も神の最高の作品だと私は考えますが、皆さんは如何でしょうか。これは人間の心と言葉の関係を譬えたまでのことで、地球上の木を一本一本見て回る必要はありません。聖書に「癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く」(箴言15:5)とあるように、人は言葉によって癒されもするし、深い傷を負うこともあるのです。「人の口からは、心に溢れていることが出てくる」からです。そこでイエスは口から出る言葉以前にその動機の源である「心」を問題にして「あなた方は蝮の子である」と言います。

 

 蝮の子とは一体どう言う意味なのでしょうか。聖書に「この巨大な龍、年を経た蛇、悪魔とかサタンと呼ばれる者、全人類を惑わす者」(ヨハネの黙示録12:9)とあります。この蝮(蛇)はどれくらい年を経ているかと言うと、人間の歴史が始まる以前から既に造られていましたが、神に敵対したばかりか、光の天使に偽装して(コリント11:14)、人間の始祖アダムとエバを誘惑しました(創世記3:1)。それ以来人間はサタンの支配に従う蝮の子、生まれながらに罪人なと成り果てました。

 

 では私たちはどうすれば良いのでしょうか。悪魔の子とされた私たちは果たして神の子になれるのでしょうか。大丈夫、全能の神はそんな私たちに対しても救いの道を閉ざしてはおられません。「悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりびとりが罪の赦しを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けることができる」と聖書は言います(使徒行伝2:38)。

 主イエスは私たちにただ美しい言葉遣いをするようにと言っておられるのではありません。「塩で味つけられたやさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう」(コロサイ4:6)と言っておられるのです。塩は食べ物を腐敗から守ってくれます。ピリッとするその味が脳の働きを活発にしてくれます。猛烈な暑さの中で仕事をする人は、少量の塩を舐めることによって、体を支えてくれます。おしるこに少量の塩を加えることによって甘みを引き出してくれます。塩味の利いた言葉とは神の愛に根ざす神の言葉です。神にある愛が心の内にある人の言葉は、どんなに乱暴な言葉遣いでも人の心を癒す命の木となることでしょう。聖別された言葉はその人が先ず聖別さていてこそ語れます。聖別されるとは神のものとされると言うことですから、あなたが先ずこれまでの行いの罪、言葉の罪、思いの罪など一切の罪を神の御前に悔い改めて告白することです。この悔い改めの告白と言う言葉こそ「神に義とされる言葉」です。全ての人間関係をここから始めるなら、この世は神の栄光を現す者で満ち、真の平和で覆われることでしょう。

 

 今私たちの教会では墓地建設を進めています。墓石にどのような文字を刻もうかと考えています。多磨霊園に内村鑑三というクリスチャンの墓があります。その墓標には「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために」という三行の言葉(英文)が刻まれています。何かの参考になりそうです。しかしこの言葉はお墓に限る必要はありません。私たち一人びとりが先ず悔い改めて神の栄光を現すなら、聖霊は私たちの言葉を清めて下さいます。そして私たちと隣人との関係をも必ず清めて下さるのです。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。私たちは人からは優しい言葉を求めますが、自分はどれだけの人を傷つける言葉を発してきたか分かりません。私たちの心が清められていないからです。これら一切の罪を今悔い改めて告白します。どうかお赦し下さい。

 新しい年に新しい出発をしようとしている私たちに、あなたの「塩で味つけられた優しい言葉を語る」新しい心をお与え下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお祈りしています。おささげします。アーメン。 

 


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