1999年8月29日

主日礼拝メッセージ

「手放すな」 

聖書: マタイによる 福音書 7章 6節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】   

 主イエスは1〜5で、「人をさばくな」と教えておきながら、その舌の根もかわかないうちに、ある人を犬、ある人を豚と呼んで、神聖なもの(耳輪と訳している聖書注解書もまれにはあります)や真珠を与えるなと、きつい言葉でさばいておられます。イエスさまも総論で愛を語りながら、各論になると、特定の人をゆるせないとは、私たち凡人と変らないのでしょうか。それは違います。神は愛とさばきを矛盾なく両立させることのできる方です。ここでいう犬とか豚にたとえられている人は、パウロやヨハネやペテロが指摘しているように、反キリスト、偽キリスト、偽預言者、偽教師という完全に魂を悪魔に売り渡してしまった悔改めなき似非(えせ)キリスト教のリーダーたちのことをさしています (フィリピ 3: 2、气ハネ4 :1-6、5 : 16-17、黙 2 : 20-21、ペテロ2 : 1-3)。このような者たちを近づけてはなりません。神聖なものとは旧約の時代には神にささげられた故に「神聖なもの」とされるのです。神にささげるべき「時間」、「からだ」、「金品」、「賜物」(奉仕の原動力のこと)を彼らに与えてもその価値がわかりません。真珠とは主イエスご自身であり、福音の言葉です。これらは彼らには何の意味もなしません。偽キリストはそれらの宝を私たちからはぎとって不信仰へと陥れようとします。決して手放してはなりません。むしろこの真珠をもって誘惑に負けて信仰のレースから脱落しそうになっている人を励まし、助けてあげましょう。


 

【本文】   主題「手放すな」

 

 早いものでいつの間にか8月も今日が最後の主日礼拝です。9月に入りますと「教会学校月間」です。高齢者から小さな子どもに至るまで、また新たな思いで御言葉の学びを再会するのです。

 所で皆さんは聖書教育誌をお持ちでしょうか。もしまだ持っておられないなら、是非10月号から個人的に購入なさることをお勧めします。私はこの本から随分メッセ−ジへの刺激を与えられています。出来るだけ系統的に聖書を学べるように編集されています。だから高いお金を出して聖書注解書を買わなくても、これを毎号本棚に並べておくだけで聖書全巻の学びが十分に出来ます。それに聖書そのものの学びは勿論、各界各層のクリスチャンがその置かれた現場の中から聖書をどう読みとっているのか、世の中をどう見ているのかが、実にリアルに書かれています。その一つ今号は沖縄バプテスト連盟の胡屋バプテスト教会の渡眞利文三牧師がその巻頭言に「沖縄の呻きに共感し、共働する」というタイトルで書いておられます。長文ではありません。しかし一つ一つの言葉は研ぎ澄まされた両刃の剣のように、読む者の心に迫ってきます。日米両政府は沖縄を東及び東南アジアの戦いの砦、出来得れば、或いは既に秘密裏に核ミサイルの発進基地と考えていますが、渡眞利先生は「百年来沖縄に対する差別が本質的に代わらぬ今日、沖縄を訪れて反戦平和を唱えても(望ましいことではあるが)力ある連帯にはなり得ません。想うに、本土のキリスト者は政府の誤った政策を認めたり、無関心であっては、沖縄の呻きに共感、共働することになりません。21世紀の若者たちは、国際的人間として、世界にはばたいていくうえで、地理的に中国や東南アジアに近い日本の南端を良く知っておくことは大切です。これからは、“太平洋の平和の砦”として親善橋渡しの役割を果たすべきです」と結んでおられます。 また最近届いた「ヌサンターラ通信」第29号の中で、木村公一先生も「多くのキリスト者が個人としてこの種の人権抑圧事件の犠牲者に連帯している一方で、多くの教会は礼拝に熱心ではあるが暴動・組織的レイプ事件に対して深い関心を示さない。個人的な幸福の追求には熱心に祈るが、共同社会の正義と平和の実現を祈り求める霊性が欠如している」と書いておられます。これがインドネシアの多くのキリスト教会の現実であると嘆いておられるのですが、彼のもう一方の視線は日本のキリスト教会にも向けられているのです。 

 今朝与えられた御言葉は正に今日(こんにち)の日本の教会が担うべき課題そのものです。確かに本日の聖書個所は大変謎めいていて、難解な教えの1つということができます。主イエスは15節で「人を裁くな」と言いながら、その舌の根の乾かない内に、ある人を「犬」、またある人を「豚」と呼んで、彼らに「神聖なものや真珠」を与えてはならないと、きつい言葉で裁いておられます。所詮はイエスさまも、私たち凡人がよくやるように総論では隣人への愛を説きながら、各論になると、特定の人を愛せないと言う偽善者なのでしょうか。勿論イエスさまはそのような方ではありません。神さまは愛とさばきを矛盾なく両立させることの出来る方です。キリスト者は決して手放してはならないものがあります。何者にも奪われてはならないものがあります。同時に全ての人に惜しみなく与えるべきものがあります。先ず決して与えることの出来ないもの、手放してはならないもの、奪われてならないもの。それは神から賜った永遠の命を宿すべき霊であります。キリストに対する信仰です。同時に惜しみなく与えるべきものがあります。それは神から賜った愛、キリストの福音です。それが今日(きょう)私たちが主から与えられているメッセ−ジの中心なのです。聴く耳をもって聴きましょう。   

 「神聖なもの」とは神に献げて初めて聖められるもので、“時”と“身体”と“富”です。突き詰めて言うと私自身の信仰です。「真珠」とは後に続く譬え話によると、並のものではなく「高価な真珠」(マタイ13:46)です。、それは主イエス・キリストによって贖われた復活の命、永遠の命です。これらを犬や豚に譬えられた人々に決して与えてはならないのです。v ではこの犬や豚とは誰を指しているのでしょうか。パウロやヨハネやペテロが指摘しているように、それは悪魔とその使いである悪霊に完全に魂を売り渡してしまった反キリスト、偽キリスト、偽預言者、偽教師と言う似非(えせ)キリスト教のリーダーであり、神の座に着こうとするこの世の権力者です(フィリピ3:2,ヨハネ4:1−6,5:16−17,黙示録2:20−21,ペテロ2:1−3)。

 力こそ神とうそぶき、数の力で悪を正義と言いくるめる組織であり、そのリーダーです。彼らは初めから公然とキリストに反抗し、教会を迫害し、神ならざる者を神として拝むことを強要する支配者です。或いは一度はキリストに対する信仰を言い表した人が、その後に信仰を捨てた人です。ただ捨てただけでなく、聖書を自己流に解釈し直して、別の教義を打ち立て、聖書とは似ても似つかぬものを聖書の理解の助けになると称して、実際にはそれに重点を置き、それを経典として触れ回る者です。或いは聖書を自分達の都合の良いように書き換えて、これこそが聖書の原典、聖典だと称してとんでもない教えを説く人々です。これらの人々はいつも時の権力者と簡単に手を結ぶか、或いは自ら権力の座にき、サタンの手先としてイエス・キリストに対する信仰を覆し、近寄る者全てを地獄の子としてしまうのです。クリスチャンは悪しき力、この世の権力の前に、何を奪われても、決して魂まで奪われてはなりません。良心は常に自由でなければなりません。

 ヨハネはその手紙を通して、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」と言っています(ヨハネ4:1−6)。 反キリスト、偽キリスト、偽預言者、偽教師に気を付けましょう。折角主イエスから賜った尊い真珠、神聖なものを彼らに奪われてはならず、手放してはなりません。しかし、同時に渡眞利先生や木村公一先生が言われたように、私たちはただ個人的な幸福を求めるためだけに教会に来ているのではありません。私たちはこの世に属してはいませんが、この世に生きる者です。それは未だサタンの虜、霊的に奴隷とされているこの世の人々にこの神聖なもの、尊い真珠を分かち与える者、その為にサタンと戦う者でなければなりません。ヘブル書の著者が言うように、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことが」(ヘブライの信徒への手紙12:4)ないのですから。祈りましょう。

 天の父なる神さま。御名を心から崇め、讃美します。 私たちは御子イエスさまの十字架の贖いの業によって救われました。それ以来この世で与えられた使命に生きていますが、心は天国の民として、いつの日か御国に召される喜びと希望に溢れています。 しかし、サタンも光の天使に偽装すると御言葉にあるように、この世はサタンの誘惑に満ちています。あらゆる手段を講じて私たちを信仰の道から脱落させようと努めています。どうぞこのような誘惑に陥ることがないように、私たちをお守り下さい。神聖なもの、高価な真珠を決して手放すことのないように、私たちをお助け下さい。また私たちの愛する隣人が今なおサタンの術中にはまっています。どうか主よ、私たちを自分の為の信仰の戦いに留まらず、隣人の救いの為にも信仰の戦いに出て行く愛の働き人として下さい。私たちの救主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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