1999年9月5日

主日礼拝メッセージ

確信から離れるな 

聖書: テモテへの第2の手紙 3章14〜17節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

 今日から「教会学校月間」です。私たち日本バプテスト連盟は早くから「揺りかごから墓場まで」を合い言葉に聖書教育、教会学校を大切にして来ました。そしてそこから見えて来たもう一つのこと、それは「大人の礼拝」「子どもの礼拝」という区別は存在しないのです。聖書教育の源泉である礼拝こそ、全年齢層に開かれた魂の交わりの場です。今日の使徒パウロの手紙からその確信を強められます。パウロは3代目のクリスチャンであるテモテをある面でうらやましいと言っているように聞こえます(15節)。「だからこそ」とパウロは言います。「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と。パウロは自分にないものをテモテに見て、正直うらやましいと思ったことでしょう。未信者の家庭に育ち、途中から教会を知り、主イエスに救われた人は、クリスチャンホームに育った人をやはりうらやましいのです。でも一方でクリスチャンホームに育ったクリスチャンも「異教の家庭で罪と取り組んで信仰を勝ちとったクリスチャン」をうらやましく思うのです。人は自分にない環境の人をそういう目で見ます。しかしパウロはいたずらに劣等感を抱く人ではありませんでした。大切なのは過去ではなく今です。将来です。誰から何を学んだか、それは今のあなた、これからのあなたにどのような影響を与えるかに答える言葉を持つことです。聖書こそ現在と将来に道を開いてくれます。この確信から離れてはなりません。


 

【本文】 主題「確信から離れるな」

 

 今日は教会学校月間第1週です。ここで教会学校の目的を改めて確認しておきましょう。何だったか覚えていますか。2つあります。1つは全ての人がイエス・キリストを救主と信じる信仰に導かれること。もう1つは全てのクリスチャンが生活のあらゆる所でイエス・キリストを証しし、福音を宣べ伝えることです。つまり教会学校の目的は伝道できるクリスチャン造りにあります。 バプテスト教会は数ある教派の中でいち早く、これまで日曜学校と言えば、小学生以下の幼子のためのものと言う既成概念を壊して、揺りかごから墓場まで教会教育の必要を説き、それを実践してきました。それでバプテスト教会は、教会には3つの交わりの場があると言うことを発見しました。礼拝と礼典と教会学校です。教会学校が揺りかごから墓場まで必要なのであるなら、聖書教育の源泉である礼拝こそ、全年齢層に開かれた魂の交わりの場であるはずです。従って、最早「子どもの礼拝」、「大人の礼拝」と言う区別はしないのです。年齢を超えて、全ての者がイエス・キリストの父なる神さまの御前に招かれている。そして全ての者が膝を屈めて「イエスは主である」と告白し、栄光を父なる神さまに帰するのです。ですから子どもの声が大きくてメッセ−ジが聞き取れない人は前の席に座って下さい。こんな事を言うと傲慢に聞こえるかも知れませんが、毎週毎週あなたの為に、牧師は文字通り命を磨り減らしてメッセ−ジの準備をしているのです。私も熱心に神さまからのメッセ−ジをあなたにお伝えしますから、あなたも周りの音に負けないくらい熱心に耳を傾けて下さい。話は横道に逸れましたが、このように毎年9月の教会学校月間は、勿論教会学校の大切さを確認する時であると共に、礼拝と礼典の交わりの豊かさを確認する時でもあるのです。

 さて先週は私たちがどのようなことがあっても手放してはならない2つのものがあると学びました。それは神さまから頂いたキリスト信仰と永遠の命でした。 今朝は「だからそれによって得た確信から離れてはならない」と、神さまは使徒パウロを通してお命じになられます。これはテモテという後輩の牧師に宛てた使徒パウロの手紙ですが、内容を大づかみして言うと、教会の牧師としての心構えのようなものを与えた手紙と言うことが出来ます。でも、この部分ではむしろ先輩後輩の枠を越えて、パウロはテモテの生い立ちが羨ましいと言っているように読めます。何が羨ましいかと言うと、テモテは3代目のクリスチャンだからです。1:5に祖母ロイス、母エウニケの名前が見られますが、このような家庭の中で、父親がクリスチャンであったかどうか分からないのですが、それでも家族が教会に行くことには理解があったのです。求道者であったかも知れません。そうした中でテモテは生まれながらに信仰の養いを受けることの出来た、真に恵まれた人でした。時は紀元1世紀後半です。キリストの教会が歴史の舞台に登場して、まだ30年から40年ほどしか経っていないあの時代に、物心ついたら、既に家の中にはキリストに対する信仰の香りが満ちていました。讃美歌が彼の子守歌、祈りが彼の霊の乳となっていたのです。こんなに恵まれた環境に育った人は当時そう多くはなかったことでしょう。これはさしものパウロも経験しなかったことです。彼の親戚にも何人かのキリスト者はいたようですが、皆彼と同じ時期か、恐らく彼を通して救われた人々でしょう。だからこそこの事実の重さを知って、主に感謝しなさいと言いたかったのです。

 今日(こんにち)もそのように恵まれた環境の中で育てられた人がいます。しかしクリスチャンホームに育った人にも悩みはあります。そのような人の口から「自分には明確な回心の経験がない。罪に苦しみ、徹底的に砕かれてイエスを救主と信じたという経験がない。だから私の信仰は本物ではないのではないか」という言葉が時折聞こえてくることがあります。また一方異教徒や未信者の家庭からクリスチャンになった人は生まれながらにクリスチャンホームに育った人が羨ましいのです。どの道人は自分と違う過去に憧れるのです。自分と違う環境の人が羨ましいのです。使徒パウロも正直テモテを見て羨ましいと思ったかも知れません。「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」と言うような書き方からそれが窺えます。「どうしてもっと早くイエス・キリストを信じなかったんだろう。もう10年、いや5年早くイエス・キリストを信じていたら、もっとイエスさまの為、教会の為に元気でバリバリ働けたのに。若いテモテが羨ましいな」と言う思いがあったかも知れません。これもまた教会の中で人生の夕暮れにさしかかってからクリスチャンになった方から、よく聞く言葉です。しかし今日(きょう)の個所を良く見て下さい。パウロはただ自分にないものを相手に見てコンプレックスを感じているのではありません。キリスト者は過去のどうしようもない生まれ育ちを自慢してみたり、劣等感を持つように生かされているのではありません。過去は過去として、そこにも神のご計画があったのだと感謝することです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と聖書(伝道の書3:11)にある通りです。パウロはパウロ、テモテはテモテ、高橋は高橋、あなたはあなたで良いのです。何を学んだのか。誰から学んだのか。何に親しんできたのか。それは今のあなた、これからのあなたにどのような影響を与えているのか。与えようとしているのか。このような問いに答える言葉を持っていれば、それで十分なのです。大切なことは過去ではなく、今です。将来です。そしてこの問いに明確な回答を与えてくれるもの、それが聖書です。今聖書を学ぶ環境が与えられている事実を感謝しましょう。幼い子ども達も、高齢の方もファミリー分級という教会学校が用意されていることを神に感謝しましょう。あなたはこの事実を主にあって誇りにして欲しいと思います。大袈裟に言うと、あなたは選ばれた人なのです。自分が学んで確信したことから離れてはなりません。祈りましょう。

 天の父なる神さま。御名を心から崇め、讃美します。私たちはバプテストです。しかし、バプテストであると言うことを誇りにせよとあなたは仰っていません。バプテストも罪を犯します。自分が絶対だと思うところから罪が始まるからです。しかし、あなたがバプテストの群れに聖書を学べ、幼い頃から聖書を学べと全年齢層対象の教会学校と礼拝の必要を教えて下さいました故に感謝します。御言葉こそわが足の灯火であり、我が道の光なのですから。御言葉にこそ私たちの救いと永遠の命が約束されているからです。どうか、私たちをいつもこの確信に留まらせて下さい。私たちの救主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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