1999年9月12日

長寿感謝・主日礼拝メッセージ

老いて白髪になっても 

聖書: 詩編 71編 18〜19節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

 私たちの教会には「現在会員」と呼べるメンバーが35名います。そのうち80才以上の方は7名おられます。全体の20%を占めます。これは国全体の統計とほぼ同じ比率です。これは教会にとって大変喜ばしいことと言えます。若い人には力があります。中高年には思慮分別があります。就中(なかんずく)高齢の信徒は長い人生経験で積み上げた知識がキリストによってきよめられ、教会の歩みに必要な示唆を与えて下さっています。

この詩編 71の作者は初老(しょろう)を過ぎ、そろそろ髪の色が変り始め、体もあちこち故障が多くなってきたのでしょうか。誰でも自分の生い立ちを振り返ってみたくなる年齢です。確実に向こうからやってくる「老い」と向き合わされ、一抹の不安と共に人生のしめくくりをしなければと考える年齢です。詩人はそこで「わたしが老いて白髪になっても神よ、どうか捨て去らないで下さい。」と祈るのです。年と共に友が一人、また二人と離れ去る心細さがこういう祈りとなったのです。しかし彼は思い返したように前向きの祈りも忘れません。「来るべき世代(若い人)に御業を語り伝えさせて下さい」と。そうです。高齢の方々にお願いがあります。あなたの人生はまだ終わってはいません。どうぞ若い世代の人々に主の御業、力強い御業を語り伝えて下さい。若い人々、あなたはこのような方々の言葉に耳を傾けなければなりません。


 

【本 文】        主題「老いて白髪になっても」

  

 今日は長寿感謝の礼拝です。私たちの教会には「現在会員」と呼ばれるメンバーは35名、その内80歳以上の方は7名、全体の20%を占めます。これは日本国全体の統計とほぼ同じ比率です。一般に高齢者と呼ばれるこの方々の存在は教会にとって大きな喜び、また何にも替え難い宝物です。若い人には力があります。中高年の人々には思慮分別があります。就中(なかんずく)高齢のキリスト者は長い人生経験で積み上げてきた知識がキリストによって清められて、無言の内にも教会の歩みに必要な示唆を与えて下さっています。歳をとった人は社会にとって用済みの存在という考え方は誤りです。 この詩篇の作者はどうやら初老(広辞苑では40歳以上)を可成りすぎた世代の人、或いはもっと年輩の人かと想像することが出来ます。髪の毛に白いものが混じり、それが次第に目立つようになりました。体もあちらこちら故障が多くなってきました。残された時間よりも過ぎ去った時間の方が多くなってきました。「老い」と正面から向き合わなければならない、そんな年代の人と思われます。

この年代になると、自分や自分の家族の歴史を振り返ってみたくなるものです。じわじわと、しかし確実に訪れる「老い」と向き合わされ、死という現実に一抹の不安を抱き、だからこそ人生の総括(しめくくり)をしなければと考える世代なのです。詩人はそこで「わたしが老いて白髪になっても神よ、どうか捨て去らないでください」と祈るのです。一年ごとに親しい友(配偶者を含む)が先に天に召されて離れ去って行きます。何か取り残されたような心細さがこの祈りとなったのです。

最近文芸春秋社から出た江藤淳氏の「妻と私」という本を私も読みました。仲睦まじい夫婦愛がそこには網羅されています。江藤氏にとって慶子夫人は全世界でした。その愛する妻を手の届かないところに奪い去られて、彼の心はぽっかりと穴があいてしまったのです。その空白を遂に埋めきれずに彼は周知の道を選びました。私は彼の選んだ人生の締めくくり方を非難する前に、彼を孤独なままに放置していた教会の怠慢を神に先ずお詫びしなければならないと思っています。私の目の届くところの全ての人に同じ道を歩ませてはならないと、強く心に迫られるものがあります。「いつくしみふかき」と言う讃美歌があります。その3節に「世の友われらを捨て去るときも」という歌詞が見られます。「捨て去る」というのは、友が自分を見限って離れて行くという意味ではありません。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」の心境なのです。親しかったあの友、この友が去年は便りをくれたのに、今年はくれない。どうしたかと思っていたら、身内らしき人から友の訃報を伝えてきた。そう言う歌なのです。

私達は通常困り果てた時「四苦八苦」すると言います。最初の四苦(4つの苦しみ)は「生、老、病、死」です。生きる、老いる、病む、死ぬ、人生は全て苦しみなのです。後の八苦(8つの苦しみ)は最初の4つの苦しみに更に4つの苦しみが加わることを言います。その1つに「愛別離苦」(愛する者と別れなければならない)という苦しみがあります。あの江藤氏も、「いつくしみ深き」の詩人も、そしてこの詩編71編の詩人も皆等しく経験する苦しみなのです。だから71編の詩人は「神さま、どうか私を独りぼっちにしないで下さい」(18節a)と祈ります。すると神はこの祈りに直ちに答えて下さいます。

「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3,4)と。それで彼は思い返したように祈りを続けます。それは最初の言葉よりも前向きの祈りです。「御腕の業を、力強い御業を 来るべき世代に語り伝えさせて下さい。神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう」と。 そうなのです。キリスト者は決して孤独ではありません。そしてキリスト者に定年はないのです。いくつ、何歳になってもすることが一杯あります。来るべき世代とは、若い世代の人のことです。歳をとればとるほど、若い世代の人に証する言葉は増すばかりです。この教会の高齢者のあなたにお願いがあります。あなたの人生は未だ終わってはいません。「もう歳だから」などと遠慮して黙っていないで下さい。どうぞ若い世代の人々に主の御腕の業、力強い御業を大胆に力強く語り聞かせて下さい。そうすれば、一人ひとりの為に「神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられわたしたちの神の庭に茂ります。白髪になっても実を結び命に溢れ、いきいきとして宣べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない」(詩編92:1316)と言う、神の素晴らしい約束の言葉が伴うのです。

 来るべき世代を担う、若い方々にお願いがあります。どうぞ謙って、高齢の方々から学ぶ姿勢を持ち続けて下さい。私たちの教会では月に1回主の晩餐の時を持ちます。その原型は、ユダヤ教が先祖代々守っている過ぎ越の祭りです。礼拝を終えて各家庭で過ぎ越の祝いの食事をします。その時必ず、その家の一番歳の若い者が家長に「このパンにはどのような意味があるのですか。この苦い菜っぱにはどのような意味があるのですか。この小羊の肉にはどのような意味があるのですか。過ぎ越しの祭りは何故必要なのですか」と質問する決まりになっています。毎年のことで、家族は全員今更問い直すまでもなく知っているのです。それでも彼らはこの質問をやめません。家長もまた「もうお前達は知っているはずではないか」とは言いません。一つひとつの質問に丁寧に答えます。イスラエルの人々は毎年毎年言葉で確認し、これによって自分たちの民族が救われたことを主に感謝するのです。同じように教会は主を通して私たちの信仰のルーツを確認すると共に、高齢のキリスト者との交わりを通して、教会の歴史を確認し、またこれを継承して行きましょう。

祈りましょう。

 天の父なる神さま。あなたの御名を心から崇め、讃美します。私たちは今日ここに長寿感謝礼拝をささげています。このような時が与えられていることをあなたに深く感謝します。そして、高齢者の方々に心から敬意を込めて、共に喜びたいと思います。この方々のある人は二度に亘る大戦を経験してこられたことでしょう。兵士として戦場に送られた方もあるでしょう。或いは銃後の守りという美名の下、言い知れぬ辛さを舐めてこられた一も少なくないでしょう。また長い人生をひたすら働き、家族を養い、様々な苦しみを通ってこられたことでしょう。しかし、あなたはそのような中で彼らに出会って下さり、御子イエスさまの救いに与る者として下さいました。どの人も言われます。今あるはただ主の恵みと言う外無しと。どうぞこのような貴重な体験を、信仰の証を持っておられるお一人びとりですから、いつまでも健やかに多くの若者のための福音の語り部としてお用い下さいますように、私たちの救主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン。


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