1999年9月26日

主日礼拝メッセージ

恐れるな 

聖書: イザヤ41章 8-10

メッセージ:吉野輝雄執事

【要 旨】

 恐れと無縁の人生はない。生命の危険を感じる恐怖の体験にも時に出会うかも知れない。それも恐れではあるが、ここでは人間誰もがが心の中に持っている恐れ、行動を始める前に感じる恐れ、大きな責任を引き受ける前などに迫って来る恐れについて共に考え、聖書から学びたい。

 フランスのラシュフコーは「人は希望によって約束し、恐れによって行動する。」と言っている。今振り返ると、私が20才になる半年前に教会に導かれて主イエスを求めるという行動をとった理由は、人生に対する漠とした恐れであったように思う。一体何を恐れていたのか、それは臆病な私だけに特有なものであったのか、人間誰しも抱く恐れであったのかをお話しする。私は今も「恐れ」をもっていることを否定しない。しかし、主イエスと出会ってからは、恐れのあまり自分を見失うことはなくなった。恐れからの解放の答えが聖書の中にあると信じている。聖書から「恐れ」について根本を学ぶことができたと思うからである。旧約、新訳聖書から「恐れるな」という主の言を聞いた人々(ヨシュア、イザヤ、エレミア、パウロ)の生き方を学び、今に生きる私たちへの主からのメッセージを聞き取りたい。        吉野 輝雄 


【本 文】 主題「恐れるな」

 

1. はじめに

恐れと無縁の人生はない。生命の危険を感じる恐怖の体験にも時に出会うかも知れない。東チモールの人々が最近体験したことがそれである。

それは人間の悪がつくり出した恐怖ではあり解決は政治と社会の問題であるが、同時に私たちの連帯の祈りと関心が求められている。そのような連帯が木村先生から今強く訴えられており、真の解決につながる道であると教えられている。しかし、ここでは人間誰もがが心の中に持っている恐れ、行動を始める前に感じる恐れ、大きな責任を引き受ける前などに迫って来る恐れについて共に考え、聖書から学びたい。

2. 恐れの力

a) 『箴言』という本の著者・フランスのラシュフコーは「人は希望によって約束し、恐れによって行動する。」と言っている。また、アメリカの詩人アムエル・ウルマンは「人は自信とともに若く、不安と恐れとともに老いる」と言っている。実は、2つとも最近、朝日新聞の中で見つけた言葉だ。恐れのもつ力を深く洞察している。 

b) 今振り返ると、私が20才になる半年前に教会に導かれて主イエスを求めるという行動をとった理由は、人生に対する漠とした恐れであったように思う。一体何を恐れていたのか、それは臆病な私だけに特有なものであったのか、人間誰しも抱く恐れであったのかを考えてみた。高校時代、私はむしゃらに勉強ばかりしていた(ガリ勉であった)。卒業して大学に入ってから自分が何者なのか考え始め、そのようなことを友人同士で話すようになった頃、自分が人間として確かなものを何も身につけておらず、将来何をやりたいのか自信をもって言えるものが何もない自分に気がついて大きなショックを受け、自分が見えなくなってしまった。その結果、不安と自信喪失で、段々と自己嫌悪のとりこになっていった。空っぽの自分が見透かされることを恐れ、心を開いて話すことも怖くなっていた。私の場合、青春を振り返ると、ウルマンの言うような「人は自信とともに若く」どころか、正反対で「不安と恐れ」がいつもあって心が固くなり老いていくようであった。しかし、そのような恐れで暗くなっていた心に温かい光を注いでくれたのが浦和教会であった。そして、「全て重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と手を差しのべてくれたイエス・キリストとの出会いであった。

私の場合、当時何を恐れていたかと言えば、自分の弱さ、未熟さを指摘され、馬鹿にされることであったと今にして思う。従って失敗することを恐れて一生懸命準備はするのだが、本番では緊張してうまく行かず、また自己嫌悪という暗い井戸から出られずにいた。

c) 恐れを知らない人がいたら本当に羨ましい。この世には、確かに度胸の据わった人、肝っ玉母さんがいる。私は、こころから尊敬する。しかし、恐れを持たない人間はいないと私は思う。一体人は何を恐れるのか; 大勢の前に立つと上がってしまい普段の自分の意見が言えなかったり、力が出せなかったりする。失敗を恐れるからだ。これは人の目、他人の評価が気になるからだと思う。仲間はずれを恐れている人も案外多いと思う。また、誰でも病気になることを恐れる。特に現代人はガンや難病にかかることを恐れている。交通事故や地震が何時起こるか考え始めると恐ろしくなって眠れなくなる人もいると聞く。自分の知識や努力ではどうにもならない事で不幸をもたらすようなことを人間は誰でも恐れる。

しかし、恐れは必ずしもマイナスの力だけを持つとは限らない。ラシュフコーが「人は恐れによって行動する」と言われるように、恐れがあるからこそ、その恐れを無くすように、あるいは小さくするために行動する賢明な人がいる。失敗を恐れる前によく勉強し、練習するという行動がとれる人間となれと言われる。確かにその通りである。そのような人生の達人となれるよう努力したいものだ。

しかし、そのような心がけでは解決できない「恐れ」がある。心がけでは解決できない奥深い根をもっていることを、恐れと身近につき合ってきた私は感じている。実は、恐れの本質は、他人の目や病気、事故など外からの恐れであると同時に、実は自分の中にある不安と恐れの方が大きいなの力をもっているのが普通だからだ。(今こうして高い所に立って話すことなど恐れの虜になっていた若いであったなら、逃げ出していたに違いない。義務で出てきたとしても顔を真っ赤にしコチコチになっていたに違いない。今はどうか?)。

d) 私は今も「恐れ」をもっていることを否定しない。主イエスと出会う前は、恐れをもっている自分が受け入れられず、恐れをもっていることを知られまいと肩意地をはっていた。しかし、主イエスを救い主として受け入れてからは、恐れをもっているあるがままの自分自身を認めることができるようになった。主イエスが恐れの気持ちの強い私をよくご存知であり、あるがまま受け入れて下さっていることが分かったからである。「主が私と共にいて下さる」。主の愛に触れたと言ってもよい。この事が分かってから私は、恐れの故に自分を見失うことがあまりなくなった。恐れの心から自由になると、恐れている自分の弱さが客観的に見えてくるというプラスの面があることにも気づいた。弱さをもった自分をまるごと受け入れると随分楽になるものだということも学んだ。「自分を愛するように隣り人を愛せよ」という言葉は、まずあるがままの自分を愛することから始まることだと思う。かつて斐子夫人が、「自分が好きだ」と言える自分でありたいと言われた事とも通じる。

これまで、私自身の体験を中心にして恐れについて考えて来た。ここで、もう少し聖書のメッセージに戻って「恐れるな」という御言葉について学びたいと思う。

3. 「恐れるな」という主の言を聞いた人々

旧約、新訳聖書から「恐れるな」という主の言を聞いた人々(ヨシュア、イザヤ、エレミア、パウロ)の生き方を学び、今に生きる私たちへの主からのメッセージを聞き取りたい。

特に、どんな時に主が「恐れるな」と語られたのかに注目したい。

・まず、ヨシュア

ヨシュア1: 9, 5-7
(9)わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。
5 わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。

エジプトから出て長い荒野の旅を続けて来たイスラエルの民が、いよいよヨルダン川を渡り主が約束されたカナンに入る直前のこと。それまで民を率いてきたモーセが亡くなり、ヨシュアに使命が引き継がれた時のことである。目指してきた地がすぐ前にあるにも拘わらず人々は恐れの気持ちで一杯であった。その土地に住むカナン人、アモリ人が大男ばかりだと斥候隊の報告を聞いた民の間に恐れが広がったと記されている。そのような時に主がヨシュアに語った言葉である。「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」ことを忘れるなと。エジプトからあなた方を導き出し、カナンに入ることは主のご計画だという原点を思い出しなさいと語られた。また、イスラエルの12の全部族がここで信仰と意志を一つにしてヨルダン川を渡るのだという意味で、次のように命じられた。

  3章11ー13節を読む:「(11)見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。(12)今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。(13)全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」。

 

この命令に従った時、モーセが紅海で経験したと同じことが起こった。主の業であることのしるしであるかのように。その後、ヨシュアの率いるイスラエルの民は、難攻不落と言われていたエリコへの入城にも奇跡的に成功した。

・モーセの場合はどうであったのか?

モーセは、長年エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民を救い出しなさいという大きな使命を命じられた時、エジプトの王の絶大な権力を恐れ、自分の力では不可能だと主なる神に言った。

  出エジプト3章11-12 節。
(11)モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
(12)神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

ここでも主のことばは、「わたしは必ずあなたと共にいる。」であった。それこそ「わたしがあなたを遣わすしるしである。」と言っている。モーセはこの主の言葉から逃げ出すことをせず、主に任せ、主が業をなされると信じ指導者として立った。皆さんご存知のように、とても不可能と思われた出エジプトに成功し、その後の荒野の苦しい旅の中で主が常に共におられモーセとイスラエルの民を支えて下さったことが明らかとなる。この歴史的出来事は今もイスラエルの人々が忘れてはならないと事として受け継がれ毎年過越祭、仮庵祭が行われている。 

・エレミアの場合:

◆エレミヤの召命(1章)1: 4-8
(4)主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」
(6)わたしは言った。
「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
(7)しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。
(8)彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。

これが書かれたのはどんな時であったのか?強大な国バビロニアに国が滅ぼされ、囚人、奴隷として国中の人々がバビロンにつれていかれた(BC 600)。この辺の出来事は8月に「聖書教育」で学んだばかり。そんな奴隷生活の中預言者として選んだと言われたエレミアは、あわてて「わたしは語る言葉を知りません。」と言って主からの使命を断った。「わたしは若者にすぎませんから。」とエレミアは理由を言っているが、主はエレミアの本音を見抜いておられた:彼ら(バビロニアの王、兵士、人々)を恐れていることを。主の言葉は、「難しい現実から目をそらすな。逃げてはならない。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」からというものであった。

 

・イザヤの場合/今日の聖書個所:

(8)わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
(9)<中略>わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
(10)恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。
ヨシュア、エレミアに語られた同じ主の言葉をイザヤはイスラエルの民に告げている。ここでヤコブとは:主が選び愛している人々。イスラエルの民であり、私どもクリスチャンをさしている。
(14節で)主は言われる。
恐れるな、虫けらのようなヤコブよ。イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。

これは一体どんな意味か?8節の言葉と矛盾しているではないか。

答え:詩編22編 

(7)わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
(8)わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い。唇を突き出し、頭を振る。
(9)「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。」 詩編22編

人々から虫けらと言われ、嘲笑われているヤコブよ。そう言われ、誇りを傷つけられ、人を恐れ自信を失っているのか、ヤコブよ。自分を卑下するな。恐れることはない、あなたを選んだ者であって、決して見捨てることはしない。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」である。と、どんな状況にあっても主の愛は変わらないことを告げている。

 

・パウロの場合

使徒言行録18章9-10節
(9)ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。(10)わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

 

コリントの町で福音を語るパウロに反抗し、口汚くののしる人たちがあったと、このすぐ前に記されている。このようなことで福音の使命が揺らぐことはなかったと思われるが、危害を受ける可能性はあったようだ。そのような時主が幻中でパウロに語られたのが上の言葉。

恐れを持つことは不信仰ではない。旧約の偉大な指導者たちも恐れ、たじろぎ、私にはできないと主に訴えている。特に、主から使命を与えられた時に、自分の能力、経験からは到底引き受けられないといった場合がほとんどではないだろうか。実際、身の危険、恐れが待ち受けているような場合には逃げ出したくなったとしてもおかしくない。では、そこで最も大事なことは何か?これまでの新旧約聖書が異口同音に教えている:「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる」という主の言葉を受け入れることである。人が恐れをもっていることを主はよくご存知である。隠す必要は全くないのだ。恐れをもったまま主に従って来なさい、と主は言われれている。主は必ず共にいて支えて下さる、と約束されている。実際、イスラエルの歴史の中で、また、この小さな私にも証して下さっている。

結論: 「恐れるな」というメッセージは、おびえていてはダメだという意味ではなく、あるがままの自分を飾らず主と向かい合いなさい、主に覚えられている自分として向き直ることを私どもに求めているメッセージであることを、私は今回学んだ。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」という聖書のメッセージは、私ども一人ひとりと教会に向けて語られている。

祈り

主よ、みことばを備えて下さり感謝いたします。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と語りかけて下さっていることを信じて感謝します。あなたは、私たちが置かれている現実をよくご存知であり、小さな私たちの力ではどうすることもできない現実を前にして恐れ元気をなくし、前に進む勇気を失いそうになることもご存知です。そのような時、私たちの目を小さな自分からあなたの存在と愛に向けさせて下さい。あなたは今も生きていて私たちと共にいて下さることを信じます。あなたが共にいて下さることこそ何よりも私どもの心からの願いです。こに集う一人ひとりが私の主として、私どもの教会の主としてこれからも聞き従っていけますように。


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