1999年10月17日

主日礼拝メッセージ

「清くなれ」 

聖書: マタイ8章1-4節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

山の上で人々に話されたテーマは天国のこと(5〜7章)でした。一方山から下りて来ると、そこには此の世の様々な問題が山積みしていました。その一つがハンセン病に苦しむ人のことでした。 この病は当時も今もそれを病む人に、いわれなき差別を強いる歴史を作ってきました。風邪をひいたという友を同情する人もハンセン病にかかった友を積極的にも消極的にも自分の視から閉め出してしまうのです。今日の主イエスの物語はそうした時代の人々に与えられた福音です。モーセ五書はハンセン病を「汚れた病」と決めつけ、患者に同情する処か、患者が町を歩く時、道行く人に「私は汚れています」といわせたと言うのです。ところがこの患者は道行くイエスさまに律法と正反対の言葉遣いをしました。
「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と。何という信仰、何という祈りでしょう。


【本 文】  主題「清くなれ」

  

私たちはマタイ5−7章の主イエスの山の上での説教集を学んできました(厳密に言うとまだ少し読み残しがあるので、来週と11月7日の礼拝で残りを読んでしまいたいと思っています)。

この山の上の説教集に主題をつけるとしたら、「天国のお話」と言うことが出来ます。静かな山の中でイエスさまから天国のお話を聞くことの出来たあの時代の人々は何と幸せであったことかと思います。このような所こそ天国を語るに相応しいように思えます。まるでそこが天国そのものであるかのようです。 そして8:1の「イエスが山から下りられると」という書き出しで始まる新しい物語で状況は一変します。まさに天国から下界に降りたように山の麓、里の世界には様々な問題が山積みされていました。しかし著者(マタイ)は8−9章を通して、巷のごみごみした所でうごめき、呻吟する人間の姿を飾り気なく書きながら、そこにこそ天国を見出しているのです。様々な人の生活と、そこで東奔西走するイエスさまを描くことによって「神の国は実にあなたがたの中にある」と、読者に教えるのです。聖きところに住む神は、同時に雑踏の中にご自身を現されるのです。その一つがハンセン病に苦しむ人の物語です。差別用語や不快語を使わないと言う謳(うた)い文句で出版された新共同訳聖書ですが、「らい」と言う表現が見られるのはまことに残念です。このメッセ−ジでは敢えて「ハンセン病」という表現で統一したいと思います。  

ハンセン病は当時も今もそれを病む人に、言われなき差別を強いる歴史を作ってきました。風邪をひいたという友を同情する人も、ハンセン病にかかった友を積極的にも消極的にも自分の視野から閉め出してきた歴史、それが時代を超え、洋の東西を問わず人間の残した歴史の汚点です。今日の主イエスの物語はそうした全世界の罪人に与えられた新しい戒めであり、同時に福音なのです。 モーセ五書を読みますと、特にレビ記にこの病について、事細かな規定があります。しかし今から何千年もの昔のことです。医学の知識も乏しく、社会の認識も幼い時代、モーセでさえも、家の中に生える黴も、軽い皮膚病、例えば初期の水虫程度でも、全て「ライ病」と十把一絡げにしてしまいました。そして一旦このレッテルを貼られてしまった人を、世間は同情するどころか、「汚れた病」、「汚れた者」と決めつけて、真に冷たい仕打ちをしました。汚れた者は主の会衆に加わってはならないと言う規定がついていました。彼らは道行く時、行き交う人に「わたしは汚れております」と言わなければなりません(レビ記13: 45)。肉体を病み、社会から締め出され、更には宗教からも見放されてしまったのです。モーセの時代の律法は健康な者、清いと判断された者に比重を置いて、その人達を保護することを優先したのです。医学的未熟さが産んだ差別でした。 所が今、このハンセン病患者は道行くイエスさまに律法と正反対の言葉遣いをしました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。蓋し、これは明らかに律法に挑戦する言葉、律法に違反する言葉でした。それだけに何という信仰、何という祈りでしょう。彼は主の中に律法の目指す本当の目標を認めることが出来ました。彼は主を人間以上の方という確信を持って、この方ならお心一つで世界をどうにでも動かすことがお出来になると確信していました。直ぐにでも癒して頂くことが出来るし、徐々に徐々に治して下さることもできるのです。その癒しの方法も、それに要する時間も白紙委任をした人の言葉です。そしてもう一つ、彼は覚悟を決めていました。主が自分と向き合って下さるなら、それによって律法に従順な人々の非難も、この世の審判も全て甘んじて受けるという覚悟のできた言葉なのです。実に命を懸けた信仰であり、祈りなのです。だから主もまた直ちに彼を保護するために「よろしい。清くなれ」と応答し、更に社会的バッシングを受けなくて済むように、この経緯と、その顛末について「だれにも話さないように」とフォローアップして下さったのです。  

それにしてもどうしてハンセン病が汚れているのでしょうか。この物語はむしろ差別する側、偏見を持つ側の人の心こそ最も汚れていると、鋭く指摘しているのです。私たちの国でもハンセン病に対してだけではありません。更には被差別部落の人々や在日韓国・朝鮮の人々など外国人に対する偏見と差別性という罪があります。私たち自身の心の奥深いところにこのような最も汚らわしい罪が隠されているのです。表面は国際化時代だとか、人は生まれながらに平等であると言いながら、何かの弾みに異質な者を閉め出したり、ナショナリズムが顔を覗かせるのです。ですから私達こそ主の御前にひれふして「わたしは汚れています。しかし主よ、御心でしたら清めていただけるのですが」と祈らなければなりません。悔い改めとは、神の光に照らされて、その罪を隠さずに告白して、主イエス・キリストの御前に立ち帰ることなのです。そうすれば、主もまた直ちに私たちと向き合って「そうしてあげよう、きよくなれ」と清め、救って下さることでしょう。

祈りましょう。 

天の父なる神さま。あなたの御名を心から崇め讃美します。 今日の御言葉を感謝します。私たちこそあなたの癒しと赦しを必要とする、最も汚れた者でした。今、私たちも申し上げます。主よ、御心でしたら、清めていただけるのですが」と。どうぞ、私たちの外も内も全てを聖霊の油を注いで清くして下さい。 私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。                          


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