1999年11月14日

主日礼拝メッセージ

手を置いて祝福された 

聖書: マルコによる福音書10:16

「そして,子供たちを抱き上げ,手を置いて祝福された。 」(マルコ10:16)  

【要 旨】

 「神の国はこのような者(子ども)たちのものである」と主イエスは 言われます。確かに子どもの笑顔は天使のようです。言葉遣いやふるまいも無邪気です。しかし時にはその天使のような笑顔で悪魔の子に変身することもあります。大人さえ考えもつかない然酷な一面を見て背すじも凍ることがあります。それでも主は神の国と子どもたちうぃ重ねて「神の国を求める者は皆幼い子にならべ」と言われます。主は子どもたちがうまれた時から原罪という種が植え付けられていることを良く知っておられます。しかし,幼いうちに悪魔の先を越して宗教教育(みことばを教える)を施すことによって,心が鋼のように硬くなってしまった高齢の未信者よりも,ずっと素直に神を畏れる者,みことばを聞いて信じる,イエス、キリストに従う者となります。みことばを教えるのに早すぎるということはありません。「もう少し大きくなったら」「もう少し聞き分けがついてから」と教会へ連れて行くこと,礼拝に出させることを一日延ばしにしているうちに,悪魔は実に上手に,早く,熱心に悪の種を育て上げていくのです。親がそろそろ良いかなと教会へ,礼拝へ連れて行こうとしても,,,,その時彼らはせせら笑い,そして言うでしょう。「神なんかいるものか」と。だから早ければ早い程あなたの子どもさんを主のもとに連れて来て,手を置いて祝福していただきましょう。


【本 文】  主題「手を置いて祝福された」(幼児祝福礼拝) 

                      

 先程子ども達に手を置いて神の祝福を祈りました。実は私は子どもの頃牧師先生に頭に手を置いてお祈りして貰ったことが一度もありません。でもその牧師先生の名誉の為に申し上げますが、決して手抜きをしたと言うのではありません。当時子どもの数が多すぎて一人ひとりの頭に手を置いて祈ることは不可能だったからだと思います。しかしそれでも私は矢張り子どもの数の多少に関わらず、そしてその為にどんなに時間がかかっても、一人ひとりの幼子の頭に手を置いてお祈りしたいのです。主イエス・キリストがそうなさったからです。主が私を牧師としてお選びになり、ここに立たせているのは、この聖なる務めを私に委ねられたからだと理解しています。

 1962年、私は20歳の時に神さまの召命を感じて献身し、10年の回り道と準備を経て神学校に入学しました。牧師として教会に遣わされたのは1976年(34歳)でした。更に4年後の1980年6月29日、最初の任地である「北大阪キリスト教会」で教会員と近隣諸教会の見守る中、按手礼諮問会議を経て、按手を受けました。「按手」とは按摩の按に手と書きます。つまり力を込めて手を置くという意味です。そこに集められた牧師たちが私を取り囲んで頭に手を置き、神の召命と委託と祝福の按手祈祷をして下さいました。教会の女性達が作ってくれた大きなふかふかの座布団の上に座りましたが、牧師たちが力を込めて私の頭に手を置くと、その分厚い座布団がぺしゃんこになりました。手の重みと温もり、祈り、教会員の熱気が今も私の頭の上の感触と共に、昨日のことのように思い出されます。あの祈りが今日の私を支えてくれています。私自身が祝福の手を置いて祈って貰ったから、この手を祝福の為に用いられたいのです。そして、私の手を頭に受けた子ども達も私の手の温もり、感触を覚えていて、いつの日か神さまの御用の為に伝道者、牧師として立てられ、遣わされる日が来たら、教会にとってどんなに嬉しいことでしょう。イエスさまの手はいつも癒しのために、慰めのために、祝福のために、時には死人を生かすために、絶望の淵にある者を救うために用いられました。牧師が牧師として按手を受けると言うことは、牧師の手もそのような奉仕の為にあるのだと言うことを学ばないわけには行きません。このことを心に留めながら御言葉に聴きましょう。 

 主は幼子を抱き上げ、手を置いて祈られました。そして「神の国はこのような者(子ども)達のものである」と言われました。確かに子どもの笑顔と寝顔は天使のようです。言葉遣いや振る舞いも無邪気そのものです。しかし、時にはその天使のような笑顔で、悪魔の子どもに変身することもあるのです。大人さえ考えもつかない残酷な一面を見て背筋も凍る思いをすることがあります。それでも主は神の国と子どもたちを重ねて「神の国を求める者は皆幼子に学べ」(15節)と言われます。どうしてでしょう。主は子ども達の心に、その生まれた時から悪魔によって既に原罪という種が播かれていることをよく知っておられます。しかし幼い内に悪魔の先を越して聖書教育を施すことによって、心が鋼のように堅くなってしまった高齢の未信者よりも、ずっと素直に神を畏れる者、御言葉を聴いて信じる者、イエスさまにお従いする者となります。御言葉を教えるのに早すぎることはありません。「もう少し大きくなったら」「もう少し聞き分けの良い子になってから」と教会学校や礼拝へ連れてくることを一日延ばしにしている内に、悪魔は実に巧妙に、迅速に、そして熱心に神を否定する種、様々な悪の種を育て上げていくことを忘れないで下さい。親がそろそろ良いかと判断して教会へ連れてこようとしても、もうその時彼らはせせら笑って言うでしょう。「神なんかいるものか」と。そうなのです。神は常に「わたしはここにいる。わたしはここにいる」(イザヤ65:1)と呼びかけておられます。しかし悪魔は「神なんかいないよ」と囁き、心の王座に君臨しようとします(マタイ5:8−9)。

 今日子ども達は悪魔の毒牙にかかって呻吟しているではありませんか。成績本意の教育、画一的管理教育、人種差別教育、子どもの権利条約に対する無知が家庭を崩壊させ、学級を、学校全体を崩壊への道を突き進ませているではありませんか。このような現実を見る時、私たちは悪魔が自分の終わりの近きを悟って暴れ回っているとしか思えません。「神を畏れることは知識の初めである」と言う御言葉を心に留めて下さい。どうぞ愛する兄弟姉妹、あなたのお子さんを一日でも早く教会に預けて下さい。教会は責任を持ってあなたのお子さんを神の御言葉によってお育てします。あなたのお子さんを主の御許に連れてきて、手を置いて祝福して頂きましょう。

祈りましょう。

天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。

 今私はこの幼子達の頭に手を置いて祈りました。どうぞこの子達を祝福して下さい。この祝福は親たちに対する祝福も込められていることも、あなたは今朝の御言葉で教えて下さっています。どうぞこの教会が全ての祝福の道となりますように。どうか悪魔に先を越されることのない、主にあって賢い親としてお導き下さい。

私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。                    


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