1999年12月12日

主日礼拝メッセージ

恐れることはない 

聖書: ルカ1章26〜38節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 「マリア、恐れることはない 。あなたは神から恵みをいただいた。」( ルカ1章30節 ) 

【要 旨】

 今日はクリスマス・アドベント(待降節)第3主日です。神の希望の灯が3本になりました。このような時にマリヤの信仰を通して神のご計画を学びましょう。 <BR> 祭司ザカリヤの妻が高齢で子を宿してから6か月目に天使ガブリエルが親戚の娘マリヤの所へ遣わされてきました。神はいつも神の側から人間に近づいて下さいます。人間の努力や精進(しょうじん)で神に近づくことは不可能ですが、神は私たちを愛する心で近づいて下さいます。そして、「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」と挨拶しました。「(おられる)ように」という将来の可能性を意味する助動詞がここには見られません。今まさに「主が共におられる」と言う事実を事実として天使は告げるのです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とのメッセージによって、マリアはこの瞬間、イエスの母として選ばれ、懐妊したのです。「戸惑う」マリヤを胎内に臨在された主が支え、「お言葉どおり、この身になりますように」という信仰を告白させて下さいました。

 あなたは日々の生活で、恐れを感じることが沢山あるでしょう。しかしご安心下さい。あなたの内に在す聖霊が、あなたを支え、包み、あなたを神のすばらしい御計画を果たす器として用いようとしておられるのです。だからあなたも「お言葉どおり、この身になりますように」と思い切って告白して下さい。


【本 文】  主題「恐れることはない」(待降節第3週主日礼拝)   

     

 今日はクリスマス・アドベント第3主日です。神さまの希望の灯火(ともしび)が3本になりました。このような時に私たちはマリヤの信仰を通して、神の不思議なご計画を学びましょう。 ユダの町エルサレムでは祭司ザカリヤの妻エリサベツが高齢にも関わらず聖霊によってみごもりました。その日から数えて6ヶ月目に、天使ガブリエルが今度はガリラヤのナザレに住む親戚の娘マリヤの所へ遣わされました。神さまはいつも神さまの方から人間に近づいて下さいます。人間の努力や精進(しょうじん)で神に近づくことは不可能ですが、神は神を求める者を愛する故に、御自分の方から近づいて下さるのです。天使は先ずマリヤに「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」と挨拶をしました。ここで心惹かれるのは、私たちクリスチャン同士の間なら「主があなたと共におられるように」と言う挨拶の言葉を贈るのが普通ではないでしょうか。しかし天使ガブリエルは「ように」と言う将来の可能性としての助動詞を用いません。すでに「主があなたと共におられる」と言う現実を現実として告げます。いきなりの訪問者のこの言葉にマリヤは戸惑いを隠しません。天使はマリヤの心の動揺を鎮めるように「マリヤ、恐れることはない。あなたは神から恵みを頂いた」と言います。この天使は6ヶ月前エリサベツの夫ザカリヤに対して「恐れることはない。あなたの願いは聞き入れられた」(1:13)と言いましたが、マリヤに対しては「あなたの願いは聞き入れられた」とは言わず「神から恵みをいただいた」と言いました。彼女は確かにシングル・ママになりたいと神さまに祈っていたわけではありません。マリヤにとって、結婚もしていない自分が懐妊するなど、どう考えても理解を超えることなのです。何が神の恵みでしょうか。「どうして」と問いかけます。天使は動揺するマリヤに「聖霊があなたに降り、いと高き神の力があなたを包む」と答えます(口語訳では『おおう』とあります。これは創世記1:2の『おおっていた』と同じように、雌鳥が卵をあたためる様子から来た動詞です)。実にこの答えこそ「主があなたと共におられる」というメッセ−ジの理由です。マリヤの懐妊は神の恵みの賜物以外の何ものでもありません。マリヤはこの瞬間、イエスのお母さんとして選ばれました。しかしそれはカトリック教会が言うように、マリヤに特別の品性が備わっていたからとか、神さまに選ばれるに値する清さが備わっていたからではありません。そのようなことは天使のメッセ−ジの中のどこにも見られません。勿論彼女は色々な点で素晴らしい女性であったことでしょう。しかし、それは神の選びに与る前提条件ではないと言うことをこの個所から読みとることが出来ます。彼女が主の母上として選ばれたのは、ただ「あなたは神から恵みをいただいた。…神にできないことは何一つない」と言うメッセ−ジに込められているように、一方的な神からの恵みに尽きるのです。

 「恩寵(おんちょう)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。広辞苑や大辞林のような立派な辞書でなくても、中学生が持つ国語辞典に「ラテン語のグラティアの訳語。キリスト教で、罪ある人間に神が特別の思し召しで与える愛」と説明されています。神さまはどのような罪人をも愛しておられます。恩寵信仰とは自分の内に根付いている罪を率直に認めて、だからこそ神さまの恵みを必要とする信仰です。

 マリヤは、今神のご計画のために選ばれました。これに対して彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました。これこそ恩寵信仰なのです。しかし同時にメッセ−ジを受ける者の戦いはメッセ−ジを聴き、それを「アーメン」と信仰をもって受け入れた瞬間から始まります。マリヤもそうです。彼女にとって恐れる材料は両手に余るほどです。彼女にはヨセフという許嫁(いいなずけ)がいました。ヨセフは「正しい人」(マタイ1:19)です。真面目で正しい人ほど、この事実を受け入れることは難しいことと思われます。胎内の赤ちゃんについて、どのように伝えたら分かってくれるでしょうか。親は何と言うでしょうか。世間は…等と考えると、恐ろしくてならないはずです。きっと世間は面白可笑しく、これを一大スキャンダルとして報道することでしょう。中でも一番恐ろしいのは会堂の指導者、律法学者です。律法に違反した廉(かど)で石打にされることは目に見えています。死ぬのも怖いですが、不名誉な死はもっと怖いのです。しかも身の潔白を証明する手掛かりは何もないのです。神さまのメッセ−ジを受け入れるとはこういうことです。聖書を読んで感動し、メッセ−ジを聞いて涙しても、世間はその清い経験をあざ笑って吹き消そうとすることでしょう。礼拝者はそのような日常の苦しみを避けて通ることはできないのです。

 それでもマリヤは賢い人でした。彼女の賢さは主を畏(おそ)れる心から来る賢さです。彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と告白しました。後先のことを考えない一時の感情で口走ってしまったのではありません。先程これこそ恩寵信仰だと申し上げました。35節を見て下さい。マリヤの内に「聖霊が降り、いと高き方の力が包んでいる」ことを、マリヤ自身確信できたからこのような告白が出来たのです。神に出来ないことは何もないというメッセ−ジを心から信じた者だけが告白できる、思慮深い言葉なのです。 

 あなたはあなたの日常の中で、恐れを感じることが沢山あるかも知れません。しかしご安心下さい。あなたの内には既に御霊なる主が臨在しておられます。この聖霊があなたを包み、あなたを支え、神さまの素晴らしいご計画を進める器として、恵みをもって選んで下さったのです。ですから、もはや何も恐れることはありません。

 「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と言う祈りをいつもささげる者を主はお見捨てにはなりません。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇めます。 クリスマス・アドベント第3週の今日、私たちはマリヤの信仰からあなたの恩寵を深く知ることが出来ました。私たちは主イエス・キリストを受け入れました。既に主の僕です。神を恐れぬこの世の様々な脅かしに心怯むこともありますが、私たちの内に宿って下さる聖霊によって、私たちをいつも支えていて下さい。あなたに出来ないことは何一つないことを信じて、この世にではなく、あなたに従う者となることが出来ますように。私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。                                                                   


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