1999年12月26日

主日礼拝メッセージ

移り変わりも陰もない神 

聖書: ヤコブ 1 : 16-18

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」  (ヤコブ 1 : 17 )

【要 旨】

 1999年が暮れようとしています。そして新しい千年紀、2千年が始まります。この暦の数え方は西洋の人が考え出したものですから、日本人はこれを「西暦」と呼んでいます。しかしこれはもう少し詳しく言うと、教会がキリストの御降誕を基準に数えた年号ですから、その意味から西暦ではなく、「キリスト紀元」とか、「主の年」と呼ぶのが正しいのです。但し、キリストがユダヤのベツレヘムにお生まれになったのはさらに4年乃至6年程前だと言うことがわかりましたので、今はまだ1995年から1993年ということになるわけです。世界中の時間をそのように調整してしまえば、コンピューターの2千年問題はもう少し先のことになります。ですからその間に対策を立てれば良いと思うのですが、どうなのでしょうか。もともと時間というものは権力者がその時代の人々をコントロールしやすいように発明した遺産です。私たちは自分たちが発明し、考え出したものに振り回され、新しい年をおっかなびっくりで迎えなければならないのです。聖書を見ましょう。全てのものの初めであり、全てのものを終らせる神は永遠です。天体の動きにつれて生ずる陰もない、全く自由の神、全能の神です。この神の御心のままに私たちは造られ、救われたのです。今日まで過ごし得たのは、完全な賜物を与えられた神の恵みです。感謝と共に、恐れでなく、希望をもって新しい年を迎えましょう。


【本 文】  「移り変わりも陰もない神」(年末感謝主日礼拝) 

   

1999年が暮れて新しい千年紀、2000年が始まろうとして います。この暦の数え方は西洋からきたものですから、日本人はこれを「西暦」と呼んでいますが、もともとはロー マ・カトリック教会がキリストの降誕を基準に数えた年号ですから、西暦と言うよりも「キリスト紀元」とか「主の 年」と呼ぶのが正しいのです。もっともキリストがユダヤのベツレヘムにお生まれになったのはキリスト紀元前4− 6年であったことが分かりましたので、そこから数え直してみると、今年はまだ1993乃至1995年という事になるわ けです。この際世界中の時間を調整してしまえば、コンピューターの2千年問題はもう少し先のことになるわけで、 その間に対策を立てればよいと思うのですが、どうなのでしょうか。

 時間について考えるなら、例えば日本には6 月10日を時の記念日とすると言う習慣があります。これはその昔天智天皇が中国から取り入れた「水時計」を宮中に 備え付けた日に由来しています。このようにもともと時間というものは、権力者がその時代の人々をコントロールし やすいように発明した遺産です。人間は自分たちが発明し、考え出した「時間」というものに振り回され、特に来年 をおっかなビックリで迎えなければならないのです。  時間と言えば天体は実に悠久の流れです。しかしそれを地球の時間で換算すると、ものすごい速さなのです。例え ば地球は実に新幹線の5倍以上もの速さで自転しながら、時速10万7千もの猛スピードで太陽の周りを回っている のです。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と言われるように、地球が自分で回転する24時間の間に、ま た太陽の周りを回る1年の間に自然に格別変化は見られませんが、人は必ずしも同じではありません。1日1日の積 み重ね、1年1年の積み重ねは更に人を大きく変えて行きます。陰もできれば変化もして行きます。外見も変わりま すし、心も変わります。変わるから良い場合もあります。しかし変わって欲しくないのに変わってしまう、悲しい変 化も見られます。個人的なことですが、私も10年前のシャツが少し窮屈になりました。妻は誰かから貰ったズボンの 丈を時間をかけて一生懸命直したのに、いざ出来上がって履いてみると、ウエストがどうにも。時間は私たちの体つ きを変化させていました。

 しかし嬉しいことに私たちの信じる天の父はいつも変わらない素敵な方なのです。天地を造られた以前から今も、 この後も変わらず、私たちの救主、全能の主、永遠の神なのです。  人間は変わると申しましたが、この手紙の筆者ヤコブは良い方に変えられた一人です。彼は主イエスと同じマリヤ を母として、父ヨセフとの間に生まれました。肉によると主イエスの弟と言うことになります。最初はイエスを信じ ていませんでした。しかし後には救主キリストと信じて、エルサレム教会の指導者として体を張って教会を支える一 人にまで信仰が成長し、変えられた一人です。彼はこの手紙の中で「信仰は行いによって裏付けられる」と書いてい ます。宗教改革者マルチン・ルーテルは、初めこの手紙の意図する処を理解できなかったので、信仰生活の役に立た ない「藁(わら)の書簡」とこき下ろしましたが、矢張り時間とは有り難いもので、そのルーテルも後に評価を改め たと言うことです。いつも変わらず私たちを見守って下さる天のお父さまは、私たちの心が御心に適った方向へと向きを変え、良い意味で変化することが出来るようにと長 く忍耐と寛容をもって待っていて下さっています。

 教会の兄弟姉妹と語り合っていて、時々「それは以前にも試みたのですが、上手く行きませんでした。だから今度 もそれは無理だと思います」という言葉を聞くことがあります。多分そうだろうと思う一方で、以前駄目だったから 今度も本当に駄目なのかなあと言う思いもあります。ルカ5:5で、シモン・ペテロは主イエスから「沖へ出て行っ て網を降ろし、漁をしなさい」と言われた時「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。 しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。そしてその通りにすると、今まで経験したことの ないような大漁であったと記されています。前にもやって駄目だったという言葉は、だからこの次も駄目だと言うこ とにはならないと言うことを私たちに学ばせてくれるとても力強い御言葉です。神にはいつも溢れる可能性があるの です。そして私たちが自分の過去の経験に縛られることなく、失敗しても良いじゃあないか。もう一度やってみよう と言う前向きの信仰へと私たちを導こうとして下さっているのです。「良い贈り物、完全な賜物はみな、光の源であ る御父から来るのです。……御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それ は、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」とヤコブは書いています。数々の良い贈り物があ ります。生きるに必要な物全ては天のお父さまから与えられたものです。しかしその中で最も大いなる贈り物、完全 な賜物はこの変転繰り返す不安定な罪の世から救われた事実、神の子たる身分の証である永遠の命なのです。造 られたものの初穂はイエス・キリスト以外に考えられません。どうして私たちをも「そのようにする」と言われるの でしょうか。それは私たちが主の弟子だからです。弟子は師の如くならねばなりません。いやならせて下さるという 約束なのです。但し、これはやがて私たちが完全な救いとして御父の御国に導き入れられる時まで待たねばなりませ ん。私たちはこのような身分の保証を得ているのです。過ぎ去った日々の全てに主の守りのみ手と支えの御腕があっ たことを思い、深く感謝しましょう。そして新しい年も前向きの信仰で、希望を持って前進して行こうではありませ んか。  

祈りましょう。   

天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。  

「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありま せん」と御言葉にあります。主よ感謝します。私たちはまことに移ろいやすく、不安定な者です。変わりたくなくて も変わらざるを得ない衰え、滅び行くさだめです。しかしきのうも今日も、また永遠に変わることのない主イエス・ キリストの天の父なる神さま、あなたを感謝します。あなたはやがて私たちを御国に迎え入れて、あなたと同じ永遠 の命を持つ者、あなたの子として受け入れると約束を与えて下さいました。私たちは後何年この地上に生きながらえ ることが許されているのか分かりませんが、時至るまであなたが召されたこの教会で、精一杯あなたに仕える者とし て下さい。  私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。                                                                   


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