クリスチャンになりたい方へ

● クリスチャンとなるための条件は?

 この世の中が人間を選別するような条件はまったくありません。例えば、国籍、血筋や家系、職業、学歴などによって差別されることはありません。条件とされるのは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰告白バプテスマ(浸礼)だけです。このような考えは、すべて聖書に基づいています。

「言(キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じた人々には神の資格を与えた。この人々は、血にによってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネによる福音書 1章12-13節)

 

● 信仰告白について

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録 2章37-38節 )

1.信仰告白の必要

信仰告白とは、文字通り「信仰」の「告白」です。イエス・キリストが神の子キリストであると信じて、それを口で言い表すのです。

 日本人は昔から以心伝心と言って、一々口に出さなくても阿吽(あうん)の呼吸で相手の気持ちを察するように努力する美徳があります。しかし時にはそれが取り返しのつかない誤解のもとになって、人間関係をおかしくしてしまうことも少なくありません。「はっきりと言い、確実に聞いておけば良かった」と悔やむこともあります。

 聖書の神は私たちに御自分の意志を以心伝心で悟れと要求する方ではありません。実に明確に私達に語りかけて下さいました(ヘブル1:1,2)。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」神さまは中途半端なことを嫌われます。常にはっきりと言葉で御自分の意志をお伝え下さいます。だから誤解がないのです。その言葉に愛がありますから、聴く耳を持って聞く人には誤解の生じないのです。同じように、神さまは私たちにもはっきりと自分の意志を聞かせて欲しいと言われます(マタイ16:13−20)。では神さまにだけそっと耳打ちすればよいのでしょうか。そうではありません。共にイエス・キリストを信じる兄弟姉妹にも聞こえるように、教会で神さまの前に語りかけて欲しいのです。

マタイ16:13以下を思い出して下さい。イエスさまは弟子達みんなに質問されました。「わたしを誰というか」と。すると、ペテロもみんなのいる前で誰にも聞こえるようにイエスさまに対する信仰を告白しました。 

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:9−10)

2.信仰告白の内容

 A. 自己紹介差し支えない程度に自分の生い立ちと、何がきっかけで教会に来るようになったかなどを書きます。

 B. イエス・キリストとの関係自分が信じているイエス・キリストのことを飾らず、偽らずに書くのですから、別に難しいことではありません。

 それでは何を書けばよいのでしょうか。それは次の6点です。

1.私は(「人間とは」とか「私たちは」ではありません)聖書の神は天と地とその中に住む全ての造り主であることを信じます。

2. 私は神の永遠のさばきを受けなければならない者であることを信じます。

3.私はイエス・キリストが私を救う為に、罪の代償として十字架にかけられたことを信じます。

4.私はイエス・キリストが3日目に墓から甦って、私を罪と死と滅びから完全に解放して下さったことを信じます。

5.私はこのイエス・キリストこそ神の子、救主と信じます。

6.私はバプテスマを受けて、生涯教会生活を通してイエス・キリストの弟子としてキリストに従って行きたいと願っています。

 

● バプテスマについて

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

                                  (ローマ人への手紙6章1−11節)

 「バプテスマ」は、教会によって「洗礼」とか「浸礼(しんれい)」と呼ばれたりしています。どちらも間違いではありません。しかし、バプテスト教会では「浸礼」と呼ばれています。以下その説明しとバプテスマを受けるに当たっての心備えを記しておきます。

1.バプテスマとは

「バプテスマ」はギリシャ語から来た言葉で「全身を水に浸(しず)める」と言う意味があります。これは人がキリストを信じることによって、旧い罪の体が十字架にかけられたキリストと共に死んで葬られ、復活されたキリストと共に新しい命に甦らされることを象徴します(ローマ6:1−11)。バプテスマはキリストを信じて救われたことを神と人の前に明らかにするのですから、既に救われたと信じている人が受けるものであって、バプテスマを受けたら救われるのではありません。

2.洗礼と浸礼

バプテスト教会では「洗礼式」と言わず「バプテスマ式」または「浸礼式」と言います。「洗礼」と言う儀式の方法は「灌水礼」(頭から大量の水をかける)、また「滴礼」(頭または額に数滴の水を滴らせる)の二通りあります。これらは「罪を清める」という意義を感じますが、「罪に全く死んで甦る」という意義からは遠いように思われます。これに対して「浸礼」は水の中に全身浸める儀式です。これこそ罪に死んで葬られ、キリストの復活の命に新生するという意義を十分に理解できます。

● さらにクリスチャンとなるための相談がおありの方は、私どもの仙川教会またはご近所のキリスト教会を訪ね、牧師から指導を受られることをお勧めします。メールでの相談もできます。

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