【主日礼拝】
福音メッセージ
2005年3月6日
「 あざけりの中で」 
マルコによる福音書15章16-32節
メッセージ:高橋淑郎牧師  

 『パウロのローマへの旅』という頁の地図(聖書巻末)をご覧下さい。地中海に面したアフリカ大陸のこぶのように膨れ上がったところに「リビア」と書かれていますが、ちょうどその位置にあたります。キレネ人シモンの先祖が戦乱に追われたか何かの事情でユダヤから遠く離れたリビアに落ち延びたのでしょう。今ではすっかりその土地の住民になっていますが、それでも心は先祖伝来のユダヤ教徒ですから、過越の祭りのために上京していたのです。ある日、人だかりにうっかり顔を出したのが、この人にとって不幸の始まり、いや幸運でした。それは一人の囚人が十字架を担ぎながら、今しもとぼとぼと刑場目指して引き回されているところでした。どんな男だろうかと思う暇もなく、ローマ兵の目に留まり、「お前、十字架を担げ」と命じられてしまったのです。遠い所からはるばる旅してきたのは、こんな惨めで屈辱的なことをするためではなかったはずです。しかし、権力者の命令は絶対です。断ることは死を意味します。否も応もなく十字架を背中にくくりつけられてしまいました。そして本物の死刑囚の後ろからついて行くのでした。

 この死刑囚こそイエスです。キレネ人シモンにとってイエスの十字架を担わされることは、恥ずかしいこと、不名誉なことでした。しかし、行き着いた所で、彼はその十字架から解放されました。気がつくとイエスご自身がその十字架に釘打たれ、高々と目の前に打ち据えられています。イエスとのこの出会いが彼とその家族にとって大きな変化をもたらしたと考えることは間違っていないと思います。シモンはその後、あの十字架こそ私が釘打たれなければならないものではなかったのか。私こそその罪びとの最たる者ではなかったのかと悔い改めへと導かれたに違いありません。だからマルコは彼の息子たちの名前さえ知っているのです。

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