主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年05月06日 

                         
教会の使命  そのC  訓練

テモテへの手紙二3章14−17節
                                                                                                   山岸 明牧師              

聖書は「聖」なる書物と言われ、「聖」に込められた意味は分離で、これは他の書物から分離された特別な書物とされています。聖書は私たちの人生の規範であ り、私たちの人生に起こるすべての問題の解決はこの聖書の中にあります。もちろん聖書を知識として、教養として読んでもかまいません。しかし、それだけで は私たちの人生の土台にはなりません。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれた。」それを信じる信仰と知識が結びついていくとき、聖書は私たちを救いへ と導き、真実に生きる道となるのです。

更に主イエスは「聖書はわたしについて証をするものだ」(ヨハネ5:39)と仰せられた。つまり、私たちを救いに導くのは主イエスご自身であることから、 聖書は信仰の書といっても良いでしょう。さて、この信仰が養われるためには訓練が必要です。訓練を重ね成長するのです。昔、イスラエルの民は40年にわ たって荒ら野で神から試練を受けられた。(申命記8:2‐5)その目的は彼らを教え、戒め、誤りを正し、義に導くための訓練であった。主は同じように私た ちの人生にも介入し試練を与え訓練をします。

聖書に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる 者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたはこれを忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます」(ヘブライ12:5−7)とあります。 今、苦難の中にある方、それは主があなたの人生に介入し、あなたを試されています。それは、あなたはだれを必要とするのか、を知るための訓練です。

私たちは時々、神は私に何を与えてくれたか、という事だけに焦点が当たりすぎます。そして、物事がうまくいく、行かないで、神様を推し量ってしまいます。 しかし、本当に大切な事は「誰と共にいるか」です。それは「わが子よ」と言ってくださるお方が私と共にいて下さる。この信仰の訓練こそ神の試練と訓練の目 的です。私のもとに来るどんな苦難も、それは主イエスを通って私のところにやってくる事を覚えておきましょう。

               

 
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