主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年06月17日 

                         
教会は祈りの家

イザヤ書56章7節8節
                                                                                                   山岸 明牧師              

  「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるなら見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出 会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12)。私たちの祈りは神との会話になっているでしょうか、それとも独り言の祈りでしょうか。もし、私た ちの祈りが独り言なら、いくら祈っても何の手ごたえもなく、信仰生活を何十年続けても私自身何も変わらないでしょう。私たちの祈りが形式的なものであるな らば、信仰生活も形式的なものになり、祈りは何の力にもならない。

 初めに、形式的な祈りから、神に出会う祈りにしていきたい。
祈りを通して神と出会い、神と向き合うとき、自分の罪、自分の醜さ、自己中心な私が見えてくるはずです。そこから逃げずに向き合い続けるときに主イエスの 愛が迫ってきます。その祈りが私たちを変え、私たちの信仰生活を変えて下さるのです。形式的な祈りからの脱却は、祈りの中で神と出会い、神と向き合うこ と。

 次に、祈りは周りの人、状況をも変えていきます。
パウロとシラスがフィリピの町で福音を伝えていたとき、彼らは捕らえられ牢に入れられた。彼らは賛美し祈った。すると大地震が起こり、牢の戸が開き、繋が れていた鎖も外れ無事に救出されという奇跡が起こった。(使徒16−16−34) その出来事を通して看守とその家族が救われた。祈りは私を、あなたを、状況をも変える力がある。

 最後に、教会は祈りの家と呼ばれる。
教会は祈りによって誕生した。教会の歴史を見ても教会が教会として立っていくには祈りは絶対にかかせませんでした。教会はどんな状況の中にあっても、燃え るような祈りを通して教会は前進して行った。教会の熱心な祈りは人々を励まし、慰め、力と希望になっていった。仙川教会も祈る教会へと成長していきたい。 また、祈りはクリスチャンの最高の武器です。「共に」「心を合わせて」「ひたすら」「一致して」祈ること。

               

 
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