主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年07月01日 

                         
 『間違った自由からの解放』

ペトロの手紙(一)2章11‐17節
                                                                                                   山岸 明牧師      
                 
自由って何でしょうか?辞書で調べてみると「自分の意のままに、気ままに」よあり、続いて「強制、束縛されないこと」と書いてありました。自分の意のままに、束縛されないで生きる。多くの人たちが考えている自由とは、おそらく、そのような自由ではないでしょうか。

しかし「自分の意のままに、気ままに」生きる事が本当に自由に生きると言うのでしょうか。気ままである事と、私たちが人間として自由な存在である事とは違 います。本当の自由とは「気まま」ではなく、神様が人間を造られ「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言われた。そんな私を生きていく事が自由な人とし て生きる事ではないでしょうか。

ペトロは常に何かに捕らわれ、縛られ、不自由に生きている私たちに「自由な人として生活しなさい」と言われた。では、どうしたら自由な人として生活できる のか。主イエスは仰せられた「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31)。真理とは何か「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られた主 イエスご自身です。主イエスが私たちを自由にしてくださるのです。

次に、主イエスによって自由にされた人は「神の僕として行動しなさい」と言われた。それは愛を持って仕えるという積極的な勧めです。「兄弟たち、あなたが たは、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。自由 と言うと何々からの自由と考えやすいのですが、もっと積極的に何々をする自由と考えるのです。

ペトロはこの手紙の最後の方で「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っ ています。信仰に踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(5:8−9)と記しました。これは自由のための戦いです。私たちは与えられた自由を悪魔が喜ぶ手 段として用いるのではなく、神が喜ばれる手段として用いるのです。まさに神の僕として生きるときに。間違った自由からの解放があるのです。

               

 
 戻る