主日礼拝メッセージ                                                                                   2019年1月20日 

燃え尽きないために
出エジプト記3章1−8節
                                                                              山岸 明牧師
  何かに夢中になって燃えていた人が突然やる気をなくして、意欲も気力も無くなってしまうことがある。これは小さな燃えつき症候群かも知れない。だが、ある 時期になるとまた元気が戻ってくる。怖いのは完全に燃え尽きてしまうことだ。皆さんは大丈夫ですか?実は自分は大丈夫だと思っている人が危ないそうです。 燃えている時は熱心になれるが、燃え尽きてしまうと・・・。私たちは一体どのような火に燃やされているのか?燃え尽きてしまう火によって私の人生が燃やさ れているな、いつか燃え尽きてしまう。

 聖書は燃え尽きない火によって燃やされなさいと言う。モーセはある日、とても不思議な光景に出会った。それは「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きな い」(3:2)。モーセはその不思議な光景を見届けようと近づいたとき、柴の間から声をかけられた。「モーセよ、モーセよ」彼が「はい」と答えると、神が 言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(5)。

 私たちが燃え尽きない火に燃やされる秘訣は履物を脱ぐことです。履物を脱ぐとは、私たちが今まで歩んできた人生の知識や経験、つまり人間的な考えを捨て るということ。神が支配するところは「聖なるところ」。つまり神の領域です。神の領域において、私の知識・経験・力は何の役にも立たない。だから捨てなさ いということ。当時、靴を脱いで裸足になるという事は奴隷を意味します。これから神の僕として生きると言う事です。私たちの知識やテクニックは一瞬、燃え るかも知れない。ても、時間がたつと燃え尽きてしまうのです。

 神の僕として生きたモーセはこの後、燃え尽きない人生を歩みました。モーセは120年の生涯を終えるときまで目は輝き、活力も失せなかったと聖書に記さ れています。私たちも常に自分を神に明け渡し、神のご支配の中を歩むときに、モーセのように燃え続ける人生を歩むことができるのです。オリンピックの聖火 が大会期間中ずっと燃え続けているように、私たちの人生も終わりのときまで燃え続けたい。    
               

 
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