主日礼拝メッセージ                                                                                   2019年04月07日 


心燃やされて
ルカによる福音書 24章13−35節
                                                                              山岸 明牧師
              

 エマオへ向かう二人の弟子がいた。彼らは主イエスが復活したことを仲間の女性から聞いたが信じる事が出来ず、そのことについて道すがら二人で話し会って いた。すると復活された主イエスがこの二人の弟子の前に現れ声をかけられた。しかし、彼らはその方が主イエスだと分からないでいる。何故?聖書には彼らの 目が遮られていたとある。一体何によって目が遮られていたのか?復活の主を見せまい、分からせまいとする力か。それとも目の前の厳しい現実に翻弄されてし まっていたのか。私たちも主イエスが共にとられると言う事を何百回、いや何千回と聞いているが、この弟子たちと同じように主イエスの復活は聞いているけど 分からないと言うことはないだろうか。

 最初、復活の主が共にいて下さるのに、それが分からなかった弟子たちがこの後、復活が分かるようになった。何故か彼らの「霊の目が開かれた」からであ る。どのように開かれたのか、聖書には「一行が目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとさる様子だった」(28)。そこで二人の弟子は「一緒に お泊りください」と無理に引き止め主イエスを家に招いた。

 招かれた主は「一緒に食事の席についたとき、イエスはパンを取り賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分 かったが、その姿は見えなくなった」(30-31)。何があったのか、初めは主イエスをお客様のように迎え入れたが、主イエスが心に入ったとき、主イエス が主人となり彼らを祝福し、彼らの目を開かれた。

 すると弟子たちは一緒におられる方が主イエスである事が分かったが、今度は主イエスの姿が見えなくなった。どうして?主イエスは生きておられ、共にいて くださる事が分かったので、もう肉の目で主イエスを見る必要がなくなった。この世を生きる私たちは今でも目が遮られる時が度々あるが、どのような状況の中 にあっても主イエスを心に受け入れること、悩み混乱する中で私の思いを一端静めて、主を自分の中にお迎えすること、主イエスが私の心を静め、心を燃えさせ てくださる。
               

 
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