主日礼拝メッセージ                                                                                   2019年04月14日 


十字架の勝利
マタイによる福音書 27章32−44節
                                                                              山岸 明牧師
              
  十字架上の主イエスに対し様々な人々が「十字架から降りてみよ」とののしった。通りすがりの人々、主イエスの十字架の両脇に一緒につけられた強盗の一人、 祭司長や律法学者、長老といった指導者たち、それぞれ立場の違う人たちが「お前が神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りて来い。」「他人は 救ったのに、自分は救えないのか、今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(42)。と激しい言葉を投げかけた。主イエスは十字架から 降りる事ができるお方でしたが、十字架から降りることはしませんでした。ここに十字架の勝利がある。

 十字架の勝利は相手を打ち負かすための勝利ではなく、相手を愛し赦す事において勝利であった。主イエスは十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈った。私たちの人生の成功と勝利も同じである。どれだけ人より勝ったかではなく、どれだ け人を愛し赦すことができたか、自分がどれだけ幸せになったかではなく、どれだけ相手を幸せにすることができたかである。

 十字架の勝利は主イエスを十字架から降ろさないこと、それは十字架を単なるシンボルとせず、常に十字架上の主イエスを見上げ続け、なぜ主イエスが十字架 にかかり、なぜ裁かれ、なぜ見捨てられ、なぜ苦しまれたのか、十字架は一体誰のためで、何のためなのかを問い続け、十字架の主イエスを見続けること、自分 の欲望を満足させるために、主イエスを十字架から降ろさないこと。十字架の主イエスを見上げるとき、そこに本当の救いと勝利がある。

 十字架の勝利を見届けた人がいます。それはローマの百人隊長です。主イエスの十字架刑の執行責任者でもあった。彼はこの十字架を客観的に冷静に見てい た。その百人隊長が刑の執行のあと、こう言った。「本当に、この人は神の子だった。」(マタイ27:54)。主イエスが救い主であると言う事を本当に知り たければ、十字架の前にたつこと。そのとき十字架から御声が聞こえるはずです。「あなたの罪は赦された。」「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ル カ23:43)。

               

 
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