主日礼拝メッセージ                                                                                          2019年12月1日 

私と教会のミニストリー

コリント信徒への手紙(一)15章58節(新約 p232)

吉野輝雄執事


 ミ ニストリーという言葉に、まだ違和感を感じますか?今年度から執事職のひとつとなり、毎月「ミニストリー広場」を発行、言葉の意味を具体的な教会活動と関 連させて解説して来ましたが、まだ馴染めてないかも知れません。適当な日本語名が見つかりませんが、主に仕える業(行為)のことです。牧師、執事だけでな く、教会員の礼拝出席、礼拝奉仕、福音伝道・伴走、教会学校の学び・福音の共有、食事・掃除当番などです。仙川教会のミニストリーを「広場11月号」に図 示しました。つまり、主から教会に託されている業に参加して、生きたキリストの体なる教会の歩みを支えるすべての行為です。今マレーシアに行っている牧 師、兄姉の働きと交流も、祈って送り出している私たちも主のミニストリーを担っています。

 大事なことは、ばらばらの活動の寄せ集めではなく、ミニストリーに参加する者が互いにつながり、支え合い、祈り合う関係の中で進められることです。キリ ストの体の部分として託された役目を担い、連携することが大切です。そうすることで、主にある喜びも悩みも課題も共有する主イエスキリストの体(ONE BODY)が組み立てられ、主の業に励む教会として成長して行くでしょう。与えられているタラントを主に捧げる歩みの中でこそ成長し輝く、とも言えます。 私たちが義務感からでなく主にあってタラント(賜物)を活かすならば、労苦は決して無駄になりません。それどころか復活された主イエスの体に繫がっている (救い)の確信と平和の実を結ぶことができる(福音に預かる)、とパウロはコリントの教会に言っています。

 仙川教会の主はイエスキリストです。この一点から外れなければ、教会に、集う一人一人に主から御霊の実が与えられると信じます。この信仰に生きるなら ば、すべての行いがミニストリーとなります。そして、ミニストリーが霊の糧となり、生きる力となり、喜びとなる。これが聖書の告げる福音です。



 
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