主日礼拝メッセージ                                                                           2019年12月29日 

『神の恵みを無駄にしない』

コリントの信徒への手紙(一)15章1−11節

山岸 明牧師


 
             
  パウロはコリントの町で1年半滞在し福音を伝えた。それは大変厳しい伝道であった。そういう中でも主イエスを信じる人たちが起こされ、福音の恵みを喜びと 感激をもって受け入れた人たちによって教会が誕生した。しかし、パウロが去った後、偽りの教えを教える教師たちが入ってきた。

 偽りの教えと言うのは、違う神を信じろと教えたのではなく、イエス・キリストを信じるだけで罪赦され、永遠の命が与えられるという教えは間違え。救いと は信じるだけで得られるものではない。彼らの教えは割礼をし、律法の掟をしっかりと守って行く、つまり努力で勝ち取るというのが彼らの教えであった。

 それを聞いた教会の人たちは、パウロの教えよりも、彼らの教えを信じた。すると教会に様々な問題が発生してきた。ねたみや争いがおき、私はパウロにつ く、私はアポロにつく、私はケファに、私はキリストに、教会の中に分裂が起きてきた。またユダヤ教伝統の形式を持ち出す者たちも出てきて、礼拝はこうでな ければならない、十字架だけでは不十分だ、さらに、復活などありえないという人も出てきた。教会はしっかりと福音にたたなければ信仰を失い、教会ではなく なってしまう。

 そこでパウロは改めて福音の中心を語った。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を 得るためである」(ヨハネ3:16)。この独り子であるイエス・キリストが私の罪のために死んでくださったこと。そして三日目に復活されたこと。復活の主 がわたしに出会ってくださったこと。この恵み(無代価で、無条件で、一方的に与えられたもの)を無駄にしないでほしい。これがパウロの願いでした。

 皆さんはこの恵みを無駄にしているところはないですか?この恵みを十分に受け止めていますか、過去の罪や罪責感を責めたりして重荷を負って歩んでいませ んか。主イエスの愛は私たちに十分に注がれています。足りないものは何一つないはずです。私たちに出来ることは何ですか?立派になることですか?違いま す。この恵みを生活のよりどころとして生きることです。


 
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