待降節(アドベント)礼拝メッセージ                                                                        2022年11月27日


嵐の中で問われた信仰
  

山岸 明牧師

ルカによる福音書8章22-25節
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」

と言われた。

 主イエスは仰せられた。「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」このストーリーは主イエスのみ言葉から始まり、その結末は向こう岸のゲラサ人の地に着いた。主 イエスのみ言葉で始まり、主イエスのみ言葉が実現して終わった。問題はその始まりと結末の間を生きる私たちの信仰生活です。弟子たちは今まさにその渦中に あります。主イエスと共に乗っている舟が嵐に襲われ沈みかけている。弟子たちは寝ている主イエスに「先生、助けてください、舟が沈みそうです。」と叫んだ。主イエスは起き上がり風と荒波を叱ると嵐は静まった。そのとき主イエスは弟子たちに問われた。「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」

 最初、弟子たちは主イエスのみ言葉に信仰を置き、舟を出した。しかし嵐の中にあっては主イエスのみ言葉よりも、漁師の経験のある自分たちの知識に信仰を 置き換えて、舟は沈む、このままでは向こう岸には行けない、これ以上は無理と判断した。しかし、主イエスは、疑う弟子たちの叫びにも応えてくださった。私 たちの信仰はどこに根拠を置いているでしょうか。主イエスのみ言葉でしょうか、それとも自分の経験や知識や常識でしょうか?人生の嵐の中で、すべての人が あなたはもう沈む、あなたはもうだめだと言っても、また自分でもそう思っても、私たちは決して沈むことはありません。なぜなら、私たちは主イエスの舟に 乗っているからです。
 
 信仰とはいつも正しい答え、態度、決断ができることだけではありません。神と正しい関係を持つことが大切です。神との正しい関係とは信じられないとき に、信じられませんと言えることです。信頼できないときに信頼できませんと言えることなのです。信仰があったら眠れるはずだ、信仰があったら平安なはず だ、信仰があったら…と言って自分を責めることがあります。信仰とは自分を責めるためにあるのではなく、信仰とは主に叫ぶためにもあるのです。本当は従え ないのに、無理して心を抑圧して、主よ、従います。と言うのと、正直に主よ、無理かもしれません。主よ、従えないかもしれません、と告白するのと、どちら が信仰なのでしょうか。人生、順調なときも、嵐の時でも、ありのままで主を叫び求めていきましょう。