祈りと聖書の学びへのご案内 【水曜祈祷会】 (【木曜祈祷会】10:30 - 11:30amも開かれています)
於:仙川キリスト教会 (フェローシップホール)
週の半ばの夕べに教会で、共に讃美し、静かに祈り、続いて聖書の学びを続けています。- あなたも出席してみませんか?
現在は、新訳聖書の「ローマの信徒への手紙」を少しづつ学んでいます。具体的には、高橋淑郎牧師がその日の聖書箇所についての解説を配付し、詳しく解説されます。それを聞きながら、私どもに告げられている聖書メッセージを出席者が受け止めます。そして、主なる神さまを信じる幸いを分かち合い、人間としての生き方について共に考える時間をもっています。
※ご質問のある方は、高橋淑郎牧師にご連絡下さい。
TEL: 03-3309-1788 e-mail: yoshirotak@aol.com
ご参考までに、最近の配付資料を次にお示しします。
- 【水曜祈祷会】 2006.5.10
- 「 わ た し の 祈 り 」
- ローマの信徒への手紙 10章1−4節(新約 p.288)
10章は三つの部分からなっている。
- @1−4節 同胞のための祈り
- A5−13節 神の救いの不思議
- B14−21節 全てはキリストの言から
- まず、@の部分から学ぶことにしたい。
- 1節 「兄弟たち」
- 手紙のあて先であるローマ教会には異邦人もユダヤ人もいたが、パウロはそれら全教会員に対してこのように呼びかける。国籍も民族・部族も地位や身分、さらに貧富の差など何も気にしないで、また男女の別もなく、お互いを「兄弟姉妹」と呼び合える関係は今も昔も主イエス・キリストの教会だけである。
- 「彼ら」
- 一方パウロにとって「彼ら」とは、まだイエス・キリストの救いに与っていない(或いは拒んでいる)ユダヤ人のこと。
- 「願い、・・・祈っています」
- 神の救いに関しては民族の壁を決して作らないパウロであるが、それでも彼の正直な心の願い、欠かすことのできない祈りは同胞の救いである。
- ここでパウロが用いている「願い(ギリシャ語:ユードキア)」という語は、一般的な漠然とした願望ではない。それは「御旨」(マタイ11:26)に適ったものであり、「御旨」(エフェソ1:5)の良しとするところのものである。
- また、通常「祈り」という場合は、「プロセウケー」というギリシャ語が用いられるのであるが、ここでパウロが用いている「祈り(ギリシャ語:デエーシス)」という語は、「懇願」という意味を持つものである。だから、文字通りに、「わたしは・・・心から願い、・・・神に懇願している」と訳すのがむしろ自然である(実際そのように訳している聖書も少なくない)が、懇願の対象が神であるから、ここは「祈り」と訳しても間違いではない。
- パウロのこれほど強い同胞に対する「愛の負債意識」(9:2―3)は、同胞の救いのために神への熱意溢れる祈願となる。
- 2節 「兄弟たち」
- パウロが日夜心にかけている同胞は、無神論者ではない。異教徒でもない。同じ聖書を手にしている人々であり、良い加減な宗教心ではなく、「熱心に神に仕えている」人々である。しかも「そう思う」という程度ではなく、「証しします」と言う。かつてキリスト教を邪教として撲滅運動の先頭を走っていたファリサイ派の律法学者であったパウロが、彼らの熱心を「保証する」と言う。
- 但し、その熱心さは「正しい認識に基づくものではない」と残念がる。「正しい認識」(エピグノーシス)とは、「聖書的知識」、或いは「真の知識」という意味である。正しい認識に基づかない熱心は「狂信」に走りやすい。この狂信が、イエスを十字架につけてしまった。狂信がいつも教会を誤らせる。
- 今日の教会にも三種類、いや四種類の教会員がいる。
- 1)熱心であって、しかも正しい聖書知識を持つ教会員―教会の戦力になる人。
- 2)正しい聖書知識を持っているが、熱心ではない教会員―観念的で自己満足型の人。
- 3)熱心ではあるが、正しい聖書知識を持たない教会員―常に他を攻撃するタイプの人。
- 4)正しい聖書知識もなく、熱心でもない教会員―礼拝よりも自分の生活を優先する人。
- 3節 「なぜなら」
- ユダヤ人の知識の浅さの理由というのでなく、そもそも聖書がわたしたちに持つことを求めている聖書的知識がなぜ必要であるかを説明する接続詞である。真の知識とは、「神の義を」知る知識である。神の義に対立するものは、「自己を義とする」ことである。どんなときにもどんなことでも神が正しい」ということを、人はなかなか認めたがらない。人の心の底にはたいてい「自分が正しい」という思いが根強いからである。「自分が正しい」という思いが消えない限り、メッセージを聞いても、信仰者の証を聞いても「疑いの森」から抜け出すことはできない。わたしたちはもっと心を空っぽにして聖書を読み、聖書に聴き、聖書に学ばなくてはならない。
- 神はヨブに言われた、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる。わたしに答えてみよ。」(ヨブ記38:2)と言い、また、「全能者と言い争う者よ。引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるが良い」(同40:2)。しかし、ヨブは全知・全能で、一切の創造主である神の問いかけに何一つ答えることのできない者であることを認めて、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」(同40:4−5)と深く悔い改め、「あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。』あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。」(同42:2−6)と告白した。
- 4節 「キリストこそ目標」
- 4節を口語訳聖書で読むと、「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられた。」
- 新改訳聖書で読むと、「キリストが律法を終わせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
- また、文語訳聖書で読むと、「キリストは凡て信ずる者の義とせられん為に律法(おきて)の終りとなり給えり。」
- 以上3冊の聖書を併読してお気づきのように、「終り」(テロス)という語を、新共同訳聖書では「目標」と訳している。イエスは十字架上で、「成し遂げられた」(テテレスタイ。ヨハネ19:30)と叫び、その直後息を引き取られた。主にあっては、「終り」と「成し遂げる」は同義語である。これを新共同訳聖書は思い切りよく、「目標」と訳した。律法は主イエスにあって終わり、十字架において全うされた。即ち主イエスこそ律法の目標である。その目標が十字架においてついに達せられたということである。これをまとめると、
- 1.キリストは律法の目標(ローマ7:1−4、ガラテヤ3:24,4:5)。
- 2.キリストこそ律法を成就させた唯一の主(マタイ5:17)。
- 3.キリストは規則と戒律ずくめの律法を廃棄された(エフェソ2:15、コロサイ2:14)。
- 4.キリストは新しい律法(ヨハネ13:34、气ハネ3:23,4:21)。
- 「信じる者にもたらされる義」
- ユダヤ人の誤解は「行いによる義」を追及することにある。これこそ正しい認識によらない熱心さである。キリストにこそ、人が義とされる秘密が隠されている。その秘密とは「信仰による義」である。このことは5節以下でさらに詳しく学ぶことにする。
- 〔黙想〕
- ・教会ではお互いをどうして「兄弟姉妹」と呼び合うのか。
- ・パウロの祈り願っていることは何か。
- ・「熱心」について、教会に見られる4つのパターンは何か。
- ・キリストは、なぜ「律法の目標」なのか。
仙川キリスト教会 牧師 高橋淑郎