【主日礼拝】
福音メッセージ  
2004年9月5日
「天地は滅びても」
マルコによる福音書13章28〜31節
 高橋淑郎牧師
 イザヤ書40:6−8(旧約p.1124)に、「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、 何と呼びかけたらよいのか、と。 肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。 主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉は とこしえに立つ。」とあります。

 国家がどれほど発言力を増し、世界に影響を与えようとも、またこの世の言葉や文化が如何にひと時華やぎ、わたしたちの耳に快く響いたとしても、もし、それが神の御旨に適わないものであれば、やがては枯れ、しぼんでしまう野の草、野の花に過ぎないのです。イエスはイザヤの預言の一部を引用して、ご自分の言葉こそ決して滅びることがないと言われます。わたしたちはこの世の言葉のあだ花にだまされて、右顧左眄してはなりません。キリストの言葉は永遠です。決してその場限りで消え去り、廃れてしまうことはありません。キリストの言葉は、それを聴く人の心を捉えて離さないばかりか、その人の人生を百八十度転換させる力があります。この力あるキリストのみ言葉はいったいどこから聴こえてくるのでしょうか。十字架の上からです。イエスの語られるみ言葉は全て十字架を通して聴こえてくるのです。だから、使徒パウロは主イエス・キリストのみ言葉を「十字架の言葉」と呼んでいます。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(气Rリント1:18)と。

 主イエス・キリストは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)と言われました。わたしたちが主イエス・キリストを知り、自分の罪に気付く前に、主イエスはわたしたちを見出し、わたしたちの罪の贖い代、身代金として十字架に死に、そして甦られました。その事実を信じることのできない人は過ぎ去る天地と共に滅びますが、もし信じるならば、永遠の命を受けることができるのです。

本文は長いのでパソコンでお読み下さい

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