【主日礼拝】
福音メッセージ
2005年2月13日
神の家の生きた石として」 
イザヤ書28章16節
ペトロの手紙一2章4-8節
メッセージ:篠原健治兄  
           
今日の聖書の御言葉は、私たちを「石」にたとえます。建築用の石です。
 5:この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、 神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
ペテロは、主が恵み深い方であることを味わうこと、教会を味わうことは同じであると語ります。実は「教会」が信仰にとってどれほど大切かという事は、なかなか理解されていないのが現状です。自分の救いや信仰については、聖書に学び、聖書から教えられ受け入れる。ところが「教会」のこととなると、聖書の御言葉を脇に置いて考えてしまう傾向があるのです。
ところが、聖書の時代からその危険があると語るのが6節以下です。
 6:聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、
隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない。」
 7:この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
 8:また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、 御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
巨大なドーム型の天井の真ん中にかしら石がはめ込められると、石は互いの重みで動かなくなる。かしら石のお陰で他の石が生きるのです。しかし、教会の中でこの隅のかしら石が邪魔者扱いにされ「躓きの石」「妨げの石」にされてしまうことが起こったというのです。キリストなしの教会、十字架なしの教会を建てようとする現実がある、と御言葉は語ります。
さて、キリストを信じて教会の石とされる者−キリスト者−は何をするのか。
当たり前のことですが、主イエス・キリストを礼拝することです。キリストを礼拝することがすべての出発点、教会の一致の出発点です。そのようにして、一つ一つの石が生かされて神の住む家が築かれる。なぜなら、神を拝むという仕方で人と人とが組み合わされないと危ういからです。土台なき、かしら石なき交わりは、いつ崩れるか分からないほど不確かなのです。
キリストは、死んだ石ではなく、生ける石です。人間的には赦されない罪を犯した者も、キリスト・イエスによってこの家のなくてはならない生きた「石」とされるのです。

本文は長いのでパソコンでお読み下さい

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