【主日礼拝メッセ−ジ】2005年9月11日
-- 長寿感謝礼拝 --
「教会の危機」
使徒言行録 5章1−11節
メッセージ:高橋淑郎牧師 

ここに登場するアナニヤとサフィラは教会生活に不満があったわけではありません。ペトロや教会役員の牧会に反旗を翻そうとしているわけでもありません。それどころか、彼らは教会の働きに積極的に参加しようとして、多額の献金を申し出ました。それなのに、この献金が彼らの行く末を誤らせ、教会の存続を危うくしてしまったのです。予め土地の売上金を一部ごまかして、あたかもこれが土地を売った全額ですと言って献金しようと相談、もしくは共謀したことは聖霊に導かれたペトロにはすぐ分かりました。「なぜ」、「どうして」と矢継ぎ早に詰問されると、アナニヤは一言の弁明もできないままに、神に打たれて息絶えてしまいました。妻サッピラも神に撃たれて息絶えました。

たかが献金をごまかしただけでこの審きは残酷すぎないか、という人がいるかもしれません。「たかが献金をごまかしただけ」という言葉には気をつけた方が良いでしょう。彼らはペトロをごまかし、会衆を甘く見ただけではありません。このことは聖霊を欺き、神を欺くとんでもない罪なのです。いつも所構わず喧嘩ばかりしている夫婦、心がつながらないで崩壊寸前のクリスチャンホームも周りの躓きになりますが、仲の良い夫婦、円満な家庭が必ずしも祝福されるとは限りません。結婚によるパートナーは互いに良い助け手でなければなりません。「良い助け手」とは、悪いことも共有するということを意味しません。どちらかがチェック機能を働かせて、聖書と祈りに帰って行くよう、神の道から離れないように、時に諫める関係を言うのです。

今日は長寿感謝の礼拝です。誰が誰に感謝をするのでしょうか。高齢者はこの世で長く生きている分だけ、成功と失敗の経験を沢山していることでしょう。そうした日々を回想して聖書に帰り、祈りに導かれ、救い主に出会わせて下さった聖霊に感謝して下さい。そして若い人たちにこの道を歩めと諭す者となって下さい。厳しくも愛豊かなあなたがたの導きによって信仰生活を正される若者は、信仰の先輩と神に感謝を言い表す、これが長寿感謝(敬老)の本来の意味です。
 
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