【主日礼拝メッセ−ジ】                         

2006年3月19日   
「天に王座、地に足台」
使徒言行録 7章44−53節
高橋淑郎牧師

ステファノは、今被告人としてモーセの律法に抵触した疑いのある者を裁く場(最高法院。6:12)に立たされています。目の前には大祭司をはじめ、祭司たち、またサドカイ派の人々、ファリサイ派の人々、律法学者たち、当時70人議会と呼ばれる面々が居並び、彼の弁明を聞いています。しかし、ステファノは自分の無実を訴えるというよりも最高法院の人々に何とかしてイエス・キリストの福音を伝えて罪に目覚めさせ、悔い改めに導きたい、救われてほしいという思いで語り続けるのでした。

最高法院の人々は神殿を神聖な神の宮として尊んでいます。ステファノはそれを否定しようというのではありません。しかし、神殿を絶対視することには賛成できないのです。

「見たままの形」(44節)について、それは文字通り寸法と言い、材料と言い、示されたままにという意味はもちろんですが、それ以上に「形」と言うよりも、「型」に強調点があります。山で示された型どおりとは、イエス・キリストを模型として、あの幕屋は造られているのです(ヘブル人への手紙8:5−を参照)。

最高法院の列に加えられている人たちは神殿を絶対視することによって自分たちの地位を権威付けようとしているのです。しかし、神は言われます。「これらはすべて、わたしの手で造ったものではないか」と。そうです。天は神の王座、地は王なるキリストの足台です。それなのに大祭司たちは神殿に目を奪われて崇めるべき神を見失い、神よりも自分たちを崇めさせようと思い上がっているのです。

あなたも見えるものに目を奪われて、王なるイエス・キリストを見失うことにならないように気をつけてください。心を開き、聴く耳を持って神の愛、キリストの救い、聖霊の交わりを受け入れるものとなってください。