主日礼拝メッセ−ジ】                         

2006年4月23日   
初であり、終りである方
ヨハネの黙示録1章4−8節
高橋淑郎牧師

ヨハネの黙示録の著者は、主イエス・キリストは、歴史を貫いて世界を導く神であり、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方である」というメッセージを書き送っています。「かつておられた」とは、世の始まる前からおられたという意味です。この先在の主イエスは、今から2千年前、人の姿でこの世においでになり、全人類の罪の代償として十字架に死んで葬られましたが、三日目に死人の中から復活されました。では、この方は今どこにおられるのでしょうか。1:9を御覧ください。彼は天上に引き上げられました。天上と言われると、確かに上を見上げたくなります。しかし、聖書が語る「天」とは、限られた宇宙の一部を指すのではありません。神の支配の全領域です。天と地とそこにあるもの全ては神の作品です。天とはこの宇宙そのものを包み込む世界です。イエス・キリストがこの宇宙の片隅のどこかに行ったというのではなく、イエス・キリストの支配の中にこの世界が包み込まれた瞬間、これこそキリストが昇天された本来の意味です。

この驚くべき大いなる神が、やがてお定めになった終わりの日に、再びわたしたちの住むこの世界においでになると約束してくださいました。目的はただ一つ、生きている者と死んだ者、彼を信じる者と信じない者全てを御前に引き出して最後の審判を下すためです。これを再臨と言います。それはその時代に生きている者だけを指すのではありません。墓の下にまで降って行って、死人をさえ呼び出し、その霊を裁く日、逃れようのない最後の審判の日なのです。

しかし、恐れることはありません。イエス・キリストによって罪を悔い改め、信仰の告白をして赦しを受けた者はその信仰によって救われます。「義人はその信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。